8 メンデル (1822年 ~ 1884年)






~権力保持で好きな科学に専念しそこなったチェコの司祭~






 「メンデルの法則」 という遺伝の法則を発見した偉大な科学者です。




 中学校の理科や高校の生物で習ったことがあり、彼の名を聞いたことがあるという方も多いでしょう。



 僕も詳しいことを説明する力はありませんが、現代では彼は「近代遺伝学の創始者」 とも言われています。



 エンドウ豆の交配から大きな業績を残した、偉大な人物と評価されています。




 しかし、「メンデルの法則」 は彼の生存中には全く認められず、死後30年近くもたってからやっと認められたことをご存知でしょうか。




 法則の発表からは、何と35年もたっています。





 なぜなのでしょうか。





 1822年、メンデルはチェコのモラビア地方の小さな果樹園をもつ貧しい農家に生まれました。



 当時はオーストリア帝国の領土でした。





 苦学をしながら短期大学を卒業しましたが、家庭の事情でそれ以上の進学は断念しました。

 その後、チェコのブルノの修道院での修業により、25歳で司祭になりました。





 近くの中学校の代用教員も務めたことがありますが、正教員になるための検定試験には合格することができませんでした。




 彼が修道院の庭の一隅を借りて、エンドウの遺伝研究を始めたのはこのころからです。




 1865年、約6年にわたる研究は「植物の雑種に関する実験」 と題する論文にまとめらました。



 ブルノの自然研究会の席上で発表されたのです。




 翌年には研究会の紀要に印刷され、各地の大学や研究所に送られました。

 ところが、誰にも認められません。




 実験結果の処理に数学的方法を導入するといった、新しい研究方法が理解されなかったとも考えられます。




 しかし、僕は当時の関係する学者たちが理解しようとしなかったのではないかと考えています。

 メンデルの本職は修道院の司祭であり、学者ではありません。





 「素人に何がわかるか」 という上から目線で見下され、差別的な扱いを受けたのではないでしょうか。




 これを認めれば、学者たちの誇りとプライド、権威を傷つけることにもなりかねないからですね。




 こうして「メンデルの法則」 は長い間無視され続けたのです。

 彼の死より先に、世に出ることはありませんでした。





 それにしても当の本人はこの間、いったい何をしていたのでしょうか。

 実は、研究どころではなくなってしまったのです。





 1868年、メンデルはブルノの修道院長に就任し、さまざまな公務に引っ張り出され、研究は趣味程度にしかできなくなったのです。





 さらに1874年、オーストリア議会は、修道院からも徴税する法律を制定しました。

 裏を返せば、これ以前の修道院は税を納めていなかったということですね。





 メンデルはこれに強く憤り、反対闘争を展開したのです。

 それこそ、死ぬまでの10年間、この法律の撤回のために全精力を傾けたのです。





 彼の闘争姿勢はあまりにも激しかったので、周囲からも孤立したといいます。





 他の教会が次々と税の支払いに応じていく中で、メンデルは最後まで支払いを拒否し、ついに裁判になってしまいました。





 10年にわたる裁判の中で、次第に猜疑心の強い人間嫌いの性格になってしまいました。

 失意の日々を過ごしたこの心労は、相当なものだったのでしょう。





 「私は万有引力に敏感すぎるほど体重が重くなり、もう植物採集にも行けない」

 これは、彼が知人にあてた手紙の一節です。





 1884年、メンデルは修道院の一室で、人知れず息を引き取りました。





 悔しかったことでしょう。





 他に生きる方法はなかったのでしょうか。





 彼の意識がもう少し解放されていたならば、「メンデルの法則」 はもっと早く世に出ていたかも知れません。


 

 もっと早く科学の進歩に貢献できたのではないか、と考えるのは僕だけでしょうか。
7 フリードリヒ・ヴィーク (1785年 ~ 1873年)






~名誉と富で家族から見放されたドイツの音楽教師~






 大作曲家、シューマンの妻の父親です。

 ドイツのライプチヒで、一番の音楽教師と言われました。




 シューマンやその妻クララのピアノの先生であり、強い信念と強烈な個性をもった優れた教育者でした。




 ヴィークの練習曲集は今でも出版され、機械的な技術の習得だけでなく、情操と感受性を育てることを常に主張していました。




 同じ時代を生きた大作曲家、メンデルスゾーンが創立したライプチヒ音楽院に、ピアノの教授として就任を打診されたこともあったほどです。





 娘のクララも世界的なピアニストになることができたのは、父のおかげと感謝しています。





 しかし、ヴィークは音楽的にはすばらしい成果をあげましたが、家庭的には幸福になれたとは僕には思えないのです。





 なぜでしょうか。





 1785年、フリードリヒ・ヴィークはドイツのザクセンアンハルト州ヴィッテンベルク近郊で生まれました。




 若いころは神学を学んでいましたが、ピアノのために音楽に夢中になり熱中して、後にピアノ工場と楽譜出版社を創立したほどです。





 彼の妻マリアンネもピアニストであり、声楽家でもありました。

 音楽という共通の芸術で結ばれた、楽しい理想的な夫婦を想像してしまいそうですね。





 ところが、実際にはそうではなかったのです。

 1819年、娘のクララが生まれたときのヴィークの言葉です。





 「この子は一流のピアニストに育てあげるのだ。

 音楽の世界で有名になれば、たくさんの金が手に入るし、大金持ちの貴族とだって結婚できる」





 この言葉には、ヴィークの価値観が凝縮されていますね。

 1823年、クララが4歳になると、それはハードなピアノのレッスンが始まりました。





 母親であるマリアンネは、ことごとく娘の育て方について対立しました。

 「そんなにいやなら出ていくがいい」





 翌年、クララがまだ5歳のときです。

 ついにマリアンネは、娘を残したまま家を追い出されました。





 そして、二度と戻ることはありませんでした。





 夫の側から見れば、追い出したのでしょうが、妻の側から見れば、何を言っても無駄な夫を見放したのでしょう。




 1837年、18歳になったクララは、父ヴィークの弟子の一人で、恋愛関係にあったシューマンと結婚の約束をします。




 このことを知ったヴィークは、烈火のごとく猛反対しました。




 「私が自分の人生の10年を犠牲にして、クララを一流のピアニストに育てたのは、あんなシューマンのような貧乏音楽家にくれてやるためではない。




 ピストルで撃ち殺してやる」



 何か、勘違いをしていますね。




 これは明らかに、差別者の言葉です。

 さらに、ヴィークの人権感覚が欠如した発言が続きます。




 「シューマン、今後いっさい娘と会うことは許さん」




 「クララ、もうお前をわしの娘とは認めん。

 財産も一文だって分けてやらん」




 若い男女の誠心誠意の説得にも頑強に応じず、ついに裁判になってしまいました。

 でも、結果は火を見るより明らかです。




 1940年、2人はライプチヒの教会で結婚し、裁判に負けた父はドレスデンに移り住みました。



 結婚式の出席者は、追い出されたはずの実母のマリアンネと、二人の共通の友人であるベッカー夫妻でした。




 もちろん、父ヴィークの姿はありませんでした。

 このできごとは、差別はする方が不幸になる典型的な事例ではないでしょうか。




 愛する娘の結婚を祝いたいというのは、世の多くの父親たちの本音でしょう。




 結局、フリードリヒ・ヴィークは妻から見放され、娘からも見放され、そしてその夫からも見放されたのです。




 自分の子どもと裁判で争いたい、という親はいないと思います。




 親として、自分の子どものために本当に大切なことは何か。




 とても考えさせられる世界史上のできごとですね。
6 ゾフィー大公妃 (1805年 ~ 1872年)






~権威と息子たちとの狭間で揺れたオーストリア皇帝の母~
 





 ハプスブルク家は、ヨーロッパの名門中の名門として有名です。




 歴史上数多くの皇帝や国王、皇妃や王妃を次々に出し、何か国にもまたがる広大な領地をものにしていました。




 なぜこのような名家になれたのかご存知でしょうか。

 それは「政略結婚」 です。




 ハプスブルク家にとって、政略結婚は何代にもわたる得意技だったのです。




 しかし、華やかに見える宮廷生活の裏には、人間の自由を無視した人権侵害や、悲劇もたくさん起こっていたことも事実です。




 ゾフィーは、現在の南ドイツにあったバイエルン王国の貴族、ヴィステルバッハ家に生まれました。



 彼女もまた政略結婚により、オーストリア帝国の皇帝の弟にあたる大公のもとに嫁ぎました。




 由緒ある名門ハプスブルク家です。

 皇室のしきたりや礼儀作法などをしっかり身につけて、大公妃として君臨していたのです。




 ところが1848年、ゾフィーの長男が18歳でオーストリア帝国の皇帝に即位したのです。

 フランツ・ヨーゼフ1世の誕生ですね。




 このことは、同時にゾフィーが皇帝の母親になったということでもあります。

 つまり、ウィーンの宮廷における絶対的な権力者にのし上がったことを意味するのです。




 彼女は大いに喜び、張り切ったことでしょう。




 この後は、上から目線で周りの人々を見下し、自分の思い通りにしようしたと考えられる行為が、次々に表面化していきます。




 何といっても息子のフランツ・ヨーゼフ1世はまじめを絵にかいたような性格で、母親に逆らったことがなかったのです。




 まず、息子の結婚です。




 ゾフィーは、自分の実家ヴィステルバッハ家の長女ヘレーネをフランツ・ヨーゼフ1世の皇妃にしようとして、引きあわせました。




 今でいう「お見合い」 ですね。




 ところが、ゾフィーの思いもよらぬことが起こります。




 息子の皇帝はヘレーネに全く興味を示さず、何とその妹のシシィに熱々になってしまったのです。



 猛反対しましたが、フランツはこのとき初めて母親に逆らいます。




 「私の結婚は皇帝である私が決めます。

  大公妃殿下は口出し無用!」




 こうして、妹のシシィとの結婚を成立させました。

 皇妃エリザベートの誕生です。




 1854年、フランツ・ヨーゼフ1世は23歳、エリザベートは16歳でした。

 おさまらないのは、母親のゾフィーです。




 エリザベートはヨーロッパ1の美貌と噂される女性でしたが、自由奔放な性格で、ハプスブルク家の伝統的なしきたりにはなかなかなじめませんでした。




 ゾフィーの憎悪は、エリザベートに向けられたのです。




 言葉遣いや歩き方、お辞儀の仕方、箸の上げ下ろしまで日常生活の細部に干渉して、少しでも違反すれば厳しく叱責しました。




 生まれた赤ん坊まで取り上げて、勝手に自分と同じゾフィーと名付けました。

 これはやりすぎでしょう。




 当然のことながら、耐えきれなくなったエリザベートからもゾフィーは逆らわれます。

 極めつけは、次男のマクシミリアンです。




 フランスのナポレオン3世に誘われて、メキシコの皇帝になろうとしたのです。




 ゾフィーは、このマクシミリアンを幼い時から溺愛していて、彼のメキシコ行きにも猛反対しました。




 マクシミリアンは母親の反対を押し切って、メキシコへ旅立ったのです。




 しかし、やはり恐れていた悲劇は起こりました。




 皇帝になったマクシミリアンは、メキシコで銃殺され、その遺体がオーストリアへ返されてきたのです。




 その後、ゾフィーは人が変わったように陰鬱になり、わずか2年後に愛息の後を追うように亡くなりました。





 皇帝の母という地位を手に入れても、思うようにならないことばかりですね。





 高い地位と強い権力に恵まれても、何とももったいない人生だと感ずるのは、僕だけでしょうか。





 彼女が差別意識からもう少し解放されていたならば、もっと豊かな人生を送ることができたのではないでしょうか。
5 リンカーン (1809年 ~ 1865年)






~心労から奴隷解放を戦略の道具にしたアメリカの大統領~






 「人民の人民による人民のための政治」

 リンカーンの有名な、ゲティスバーグの演説の中の言葉ですね。




 民主主義の政治を誠実に実行し、奴隷解放宣言を行い、南北戦争を終結させた偉大な大統領として長い間語り継がれてきました。




 アメリカ歴代の大統領の中でも、特に人気があった人物です。




 僕も人権感覚に優れた大統領という人物像を抱いていましたが、近年、多くの研究者によって必ずしもそうとは言い切れないことがわかってきました。





 なぜでしょうか。





 1809年、リンカーンはケンタッキー州の粗末な丸太小屋で生まれました。

 開拓者の移動生活が多く、学校にはわずか1年しか行っていません。




 彼は努力家で弁護士になりましたが、演説は非常に得意です。

 子どものころからよく切り株の上に立って演説の練習をしていました。




 つまり、弁護士になる前に、すでに政治家を目指していたのです。

 政治家と言えば、最終目標は権威・権力がある大統領ですね。




 なかなかの野心家だったということが指摘されています。

 有名なゲティスバーグの演説も実は彼が最初に考えた言葉ではありません。




 引用だったのです。




 1850年、すでに牧師のセオドア・パーカーが次のような演説を行っていました。

 「民主政体、すなわち、すべての人民の、すべての人民による、すべての人民のための政体」




 そっくりですね。




 リンカーンの演説は1863年です。

 13年もの開きがあり、この有名な言葉は、南北戦争が始まる前からあったことは明白です。




 1863年、南北戦争のさなかに、リンカーンは「奴隷解放宣言」 を発表します。

 これは南部諸州の奴隷解放を宣言したもので、ケンタッキーなど四州には適用されていません。




 おまけに南部諸州は南軍の支配下にあり、この宣言自体、実効がないといえます。

 南部には300万人の奴隷がいました。




 彼らを決起させれば、南軍は膝元に火がつくことになるわけです。

 この宣言は、南部の軍事力を弱め、北部有利に戦争を進めるための道具だったのです。




 リンカーンが、奴隷廃止を主張する人にあてた手紙が残っています。

 「この戦争における私の至上目的は、連邦を救うことにあります。




 奴隷制度を救うことにも、滅ぼすことにもありません。

 もし、奴隷を一人も自由にせずに連邦を救うことができるならば、私はそうするでしょう」




 これが本音ですね。




 彼は奴隷を異国に追放し、黒人たちはそこで自分たちの国をつくればよいと考えていました。




 白人と黒人を平等に見ていたわけではなく、白人と黒人の結婚を認める法律も、ついに最後まで通しませんでした。





 もうおわかりでしょう。





 リンカーンは、明らかに黒人差別をしていますね。

 南北戦争で、アメリカ合衆国が二つに分裂するのを防ぐことが最優先なのはわかります。




 しかしこうなると、大統領として自分が君臨している「広大な国土」 が、半分になるのを防ぐことだけが大切だったのではないか、とも思えてきますね。




 アメリカの奴隷制度が全面廃止されたのは、1865年です。

 しかし、このときすでにリンカーンは、暗殺により死亡していたのでした。




 彼の死の4日前に撮られた写真が残っています。

 その写真を見た人の感想です。




 「まるで70歳に近い老人のようだ。

 とても54歳とは思えない」




 リンカーンはこの戦争で心身をすり減らし、ボロボロになっていたのですね。

 強烈な心労が、彼の心身を蝕んでいたことが考えられます。





 もしかしたら、暗殺されていなくてもそう長くは生きられなかったのかも知れません。





 大統領という権威ある地位に、終始しがみついた男の悲しい末路を感じるのは僕だけでしょうか。