4 シャルロット皇后 (1840年 ~ 1927年)





~プライドと名誉のために発狂したメキシコの皇后~





 「私は毎日幸福感に酔っています。

 夫は才能豊か、優雅で思いやりがあります。




 私たちの宮殿はおとぎの城より美しく、神は私に望みうるすべてのものを与えてくださいました」



 これは、シャルロットが父に宛てた手紙の一節です。




 しかし、こんなにも幸せそうな夫婦でしたが、最後は悲劇で幕を閉じます。




 皇帝である夫は銃殺され、皇后であるシャルロットは、夫が殺されたことを知らないまま発狂してしまいました。




 いったいなぜなのでしょうか。




 1840年、シャルロットはベルギー王レオポルト1世の王女として生まれました。

 恵まれた環境の中で育ち、16歳で結婚します。




 お相手はマクシミリアンという明朗、活発な男性でした。

 彼はオーストリア皇帝、フランツ・ヨーゼフ1世の弟にあたる人物です。




 兄のフランツ・ヨーゼフ1世は、マクシミリアンを北イタリア総督に任命しました。

 このころが人生の華だったのでしょう。




 冒頭のシャルロットの手紙はこの時に書かれたものです。

 しかし、幸せは長くは続きませんでした。




 1859年、オーストリアはフランスとサルディニア王国の連合軍に敗れ、北イタリアの領地を失ってしまったのです。




 ここで悪魔のささやきをかけた人物がいます。


 フランスの皇帝ナポレオン3世です。




 彼はマクシミリアンに次のような誘いをかけてきたのです。

 「メキシコの皇帝にならないか」




 これは謀略ですね。




 ナポレオン3世は、メキシコを支配下に置くための傀儡(かいらい) 政権を樹立しようとしていたのです。




 つまり、操り人形ですね。

 夫が「皇帝」 になれば、妻は自動的に「皇后」 になれるわけです。




 シャルロットは、フランツ・ヨーゼフ1世の皇后エリザベートが大嫌いでした。

 「エリザベートはオーストリア皇后といっても、たかがバイエルンの公女にすぎないじゃない。




 祖父も父も王であった私とは身分が違うわ。

 だいたい何でエリザベートが皇后で、私が大公妃なのよ」




 この言葉には、シャルロットの差別意識が凝縮されています。




 もうおわかりですね。




 シャルロットは、中身よりも「皇后」 という肩書が最優先なのです。

 1864年、メキシコ皇帝マクシミリアンと皇后シャルロットの誕生です。




 これは、メキシコ国民の立場に立てば大迷惑だったことでしょう。




 というのも、メキシコでは、すでに1855年に革命が起こり、貧民大衆に支持された自由主義者、ファレスが大統領になっていたのでした。




 債権問題を口実に、ナポレオン3世は3万6000の大軍を送り込み、革命政権を強引に倒していたのでした。



 マクシミリアンとシャルロットが、歓迎されるはずがありません。




 当然国民から激しい抵抗が起こり、隣国のアメリカもメキシコを援助しました。




 劣勢になったフランスはこの新しい皇帝と皇后を見捨て、あっさりと兵を引いてしまったのです。




 孤立無援の絶望的状況ですね。

 ここでマクシミリアンは、退位を決意したのでした。




 しかし、ものすごい剣幕でこれにストップをかけたのがシャルロットです。

 彼女はメキシコからフランスにわたり、強引にナポレオン3世の説得にかかりました。




 泣きわめき、長時間ねばり、興奮のあまり何度も失神しました。

 うまくいかないと、今度はローマ教皇ピオ9世に援軍を求めましたが、これも失敗です。




 彼女はついに正気を失い、窓に鉄枠の入った城の一室に軟禁されたのです。

 1867年、マクシミリアンはメキシコで銃殺されました。




 35歳の短い生涯でした。




 シャルロットはこの事実を知らず、そのまま狂人としての余生を送ることになったのです。




 差別意識から解放されなかったことに起因するこのような悲劇は、二度と繰り返したくありませんね。



 
シャルロットがメキシコ国民の意識を理解し、国民の立場に立って寄り添うことができたなら、どのような展開になったでしょうか。






少なくとも発狂は避けることができたのではないでしょうか。
3 レーニン (1870年 ~ 1924年)





~革命の緊張と重責で悩み続けたソ連の建国者~





 「戦争をすぐにやめよう」

 説得力のある言葉ですね。




 ここでいう戦争とは、第一次世界大戦のことです。




 「ロシア革命の父」 として、世界初の社会主義国家「ソビエト社会主義共和国連邦」 を建国しました。




 世界史上、大きな足跡を残した人物です。





 帝政ロシア時代の皇帝の専制政治に終止符を打ち、労働者による政府を樹立して、国民のための国家を作り上げました。




 しかし、レーニンは建国後わずか2年で発作をおこして死亡し、現在はソ連そのものが崩壊して消滅し、この革命をプラスに評価する人は少数になっています。





 なぜなのでしょうか。





 「ソビエト政府は地主から土地を取り上げ、これを農民に分配する。

 革命は革命家だけでできるものではない。




 労働者や農民、兵士が団結して初めて成功するのだ」

 多くの国民の支持を得たことは言うまでもありません。





 1917年、三月革命で皇帝ニコライ2世を倒し、戦争を継続していたケレンスキー首相の臨時政府に対し、レーニンは十一月革命をおこします。




 革命は見事に成功して、第一次世界大戦からもいち早く手を引きました。

 しかし、レーニンの正念場はここからでした。




 諸外国が、革命をつぶしに来たのです。

 「干渉戦争」 ですね。




 ちなみに当時の日本は「シベリア出兵」 という形で、干渉戦争に積極的に参加しています。

 レーニンを党首とするボリシェビキ(共産党) は、これを退けて革命を守りました。




 ところが、1918年の憲法制定会議では、社会革命党に第一党を奪われたため、武力で議会を解散し、ボリシェビキによるプロレタリア独裁を開始していたのです。




 これは、どう考えても民主的とは考えられませんね。

 彼が権力と心労に揺れるのはここからでした。




 もともと性格的に興奮しやすく、決して図太い神経の持ち主ではありませんでした。




 マルクス主義を発展させ、レーニン主義として体系づけることはできても、理論と現実は大きな違いがあったようです。




 数十年前のことですが、僕の知り合いのある女性から、こんな話を聞きました。

 彼女の大学生になる娘さんが、あこがれのソ連旅行から帰った時の感想は、痛烈なものでした。




 「あのような貧しい国には、二度と旅行したくありません」

 この発言の背景には、いったい何があるのでしょうか。




 十一月革命が成功してからは、レーニンの生活は一変します。

 彼の過敏な神経は、国家運営という重責に耐えられるものではありませんでした。




 緊張は一時も解けることはなく、ささいなもめごとまで処理しなければなりません。

 後継者候補の一人だったスターリンとの関係にも、頭を悩ましていました。




 レーニンは、スターリンには危険を感じていました。

 恐るべき独裁者になるかもしれない、という予感です。




 体調不良の自覚症状も出てきました。




 絶え間ない頭痛と、ときに不自由になる手足に、「私は寝たきりになるかもしれない」 と不安を抱きました。




 一説には青酸カリを入手して、自殺を試みようとしたとも伝えられています。

 1922年には、最初の脳卒中の発作をおこしました。




 これ以後、レーニンの神経過敏さは度を増し、発作を繰り返すようになったのです。

 でも、ソ連は自分が中心になって、命をかけて作り上げた国です。




 不十分ながら、たびたび休暇を取りながらも、レーニンは決して逃げませんでした。

1924年1月、ついに最後の発作をおこして死亡しました。




 ソ連建国後、わずか2年。




 これでは、レーニンは強い心労で自分の命を縮めるために革命をおこしたようなものですね。




 民衆のための国づくりが、いつのまにかボリシェビキのための国づくりになっていたのではないでしょうか。




 あと少しの解放感があったならば、と考えるのは僕だけでしょうか。
2 アブデュルハミト2世 (1842年 ~ 1918年)






~暗殺者におびえ続けた赤い流血のスルタン~






 「ミドハト憲法」 をご存知でしょうか。

 オスマン帝国で作られた、アジア最初の憲法です。




 国会が開設され、イスラム教徒と非イスラム教徒の平等が明記されるなど、アジア近代化の先がけになった、世界史上でも特筆すべき憲法の一つです。




 このときのスルタン(皇帝) がアブデュルハミト2世だったのです。




 しかし、彼は後に国民から「赤い流血のスルタン」 と恐れられるあだ名をつけられる暴君に変身してしまいます。





 なぜでしょうか。





 1876年、アブデュルハミト2世はオスマン帝国の第34代スルタンとして即位します。

 不幸だったのは、この即位の時点で、すでに暗い影がつきまとっていたことです。




 同じ年に叔父であった元スルタンはクーデターで廃され、その後を継いだ兄ムラト5世も精神疾患ですぐに退位していたという事実がありました。




 これでは、自分に皇帝が回ってきても、いつ自分も前の二人と同じ運命になるかわからない、という不安をもつのはごく自然なことでしょう。




 おまけに、バルカン半島をめぐってロシアとの関係が悪化し、戦争直前の状態でした。

 輪をかけての不安材料がそろっていたわけです。




 1877年、露土戦争(ろとせんそう) が始まります。

 ロシアとオスマントルコ帝国の戦争ですね。




 アブデュルハミト2世はミドハト憲法を停止し、議会を閉鎖して専制政治を開始しました。

 しかし、この戦争でロシアに敗れてしまったのです。




 計り知れない心労だったことでしょう。

 彼の顔は青白く、いつも物思いに沈む表情をしていたと伝えられています。




 というのも、彼はロシアの刺客や不満をもつ国民からの暗殺を恐れて、公衆の面前に姿を見せなかったのです。




 34歳でスルタンになって以来、安心して安らかに眠った夜は一度もなかったといいます。




 常に見えざる敵や暗殺者におびえ、国民の不満を抑えるために、軍部に命じて数々の拷問や弾圧を繰り返しました。




 殺された人の数はあまりにも多く、ある時は血が川になったことまであったほどです。




 報復を恐れたアブデュルハミトは、宮殿の広大な敷地内にいくつもの小さな建物を建て、一か所に留まらないようにしました。




 暗殺者に居場所を知られないようにするためです。




 敷地内には6,000人もの兵士を配置して警備にあたらせました。

 秘密警察も組織して、国民には密告を奨励しました。




 首都での射撃訓練には制限を加え、国内の新聞には、海外の政治家たちの暗殺関連記事の掲載を禁止したのです。




 彼は外出もせず、食事時には毒見をする宦官を侍らせていました。




 タバコでさえも、最初の一ふかしは毒見役にさせたのです。




 こうなると、もう病気ですね。

 疑心暗鬼に振り回された、小心者の姿が目に浮かぶようです。




 1909年、ついに議会が動きました。

 アブデュルハミト2世の廃位を決議したのです。




 国民から見放されてしまったわけです。

 廃位後は、現在のギリシア北部にあるサロニカというところに幽閉されました。




 心労に次ぐ心労で、クタクタに疲れた末路と考えられますね。

 強い権力をもつ者には、意外と小心者が多いようです。




 表面的には強権を発して一見強そうに見えますが、一皮むけば常に権力を失う不安にびくびくとおびえ続ける小心者。




 アブデュルハミト2世は、この典型的な事例と言えるでしょう。




 国民や外国を見下し、差別意識から解放されなかったことがこのような結果を招いたと僕は考えています。




 スルタンでなくとも、さまざまな権力というものは人を強制する力です。




 強制される人々の立場に立ち、人々のために行使され、その納得と支持のもとにあるべきでしょう。




 彼もまた、人間としての生き方がどうあるべきか、とても考えさせられる歴史上の人物だと思いませんか。
1 袁世凱 (えんせいがい) (1859年 ~ 1916年)






~皇帝の位をねらって絶望死した中国の軍人~






 「国恥記念日」 (こくちきねんび) をご存知でしょうか。

 中国の「国の恥」 (はじ) という意味で、毎年5月9日がこの記念日に当たります。




 第一次世界大戦中の1915年に出された「21カ条の要求」 を認めてしまった日です。




 この要求を出したのは日本で、受け入れた中国の代表者は、中華民国初代大総統、袁世凱(えんせいがい) でした。




 国民から大きな反発が起こったのには訳があります。





 それは、この要求を認めれば中国は事実上、日本の植民地に近いような状態になる内容だったからです。




 それなのに、袁世凱はなぜこの要求を認めたのでしょうか。




 1911年に起こった、孫文の有名な辛亥革命(しんがいかくめい) に、袁世凱も関与していました。



 実は清(しん) 王朝の最後の皇帝、宣統帝(せんとうてい) を直接退位させたのは袁世凱だったのです。




 清の最大の実力者だったので、強力な軍事力を背景に、画策をしたのです。

 これで清は完全に滅びました。




 その見返りとして、最初から孫文に圧力をかけています。

 「中華民国の臨時大総統の地位を譲っていただきたい」




 驚いた孫文は「共和政と三民主義を守り、首都は南京にする」 という条件を約束させて、この地位を譲ったのでした。




 ところが、野心家の袁世凱はこの約束を破ります。




 北京に居座り、国会を無視して独裁政治を始めたのです。

 これを黙って見ているわけにはいきませんね。




 1913年7月、孫文は国民党を組織して、袁世凱討伐軍を起こしました。

 これが中国史上「第二革命」 と呼ばれるできごとです。




 しかし、袁世凱軍は強く、国民党軍は軍事力ではまだとてもかないません。

 孫文はやむなく再び日本に亡命しました。




 10月には、正式な大総統に袁世凱が就任したのです。

 彼が次にねらったのは「皇帝」 の地位でした。




 これでは辛亥革命は無意味になり、清王朝にとって代わるというだけのものになってしまいますね。



 歴史の逆戻りになりかねません。




 袁世凱は、最初から共和政をするつもりはなく、自分が皇帝になるために革命を利用したのでした。



 「21カ条の要求」 を認めたのも、自分の地位を守ることが最優先だったからです。

 見下された国民の立場から見れば「冗談じゃない」 と反発が出るのは明白ですね。




 1915年12月、権力をほぼ手中におさめた袁世凱は、中国国民が日本に負けない強い指導者である「皇帝」 を求めていると自分に都合よく考えて、次のように発言しました。




 「わしは来年を洪憲元年とし、元旦に皇帝即位の儀式を行うぞ。

 ついに、わが王朝が誕生するのだ」




 結果的にはこの読みは甘く、国民の大反発を誘うことになってしまったのです。

 「袁世凱ひっこめ、私たちの中国にはもう皇帝などいらない!」




 これが多くの国民の声でした。




 中国の人々は、袁世凱の即位に大反対し、雲南省や貴州省などは彼の支配から離れるために、次々と「独立宣言」 をしたほどです。




 このできごとは、中国史上「第三革命」 と呼ばれるようになりました。




 こうなると、いったん皇帝に即位はしたものの、わずか80日あまりで皇帝の座を退かなければならない状態に追い込まれます。




 袁世凱の心は、絶望と極めて強い心労でフラフラになったことは想像に難くありません。

 どれほど苦しんだのでしょうか。




 これから約1年後、彼は失望のあまり病に倒れ、あっけなくこの世を去ったのでした。

 国民を見下し、自分の権力のために





 「革命をつぶそうとした男」

 というマイナスのイメージだけが強く残る結果になったのです。





 皇帝ではありませんが、現在の僕たちの周りにも心当たりはありませんか。




 権力に目がくらんで、袁世凱のようなことを一生懸命やっている人がいるのではないでしょうか。