10 ヨハン・ベートーヴェン (1740年 ~ 1792年)






~評判と富のため手段を選ばなかった酒びたりの宮廷歌手~






 不滅の大作曲家、ベートーヴェンのお父さんです。




 父ヨハンの最大の功績は、息子ベートーヴェンの才能を見抜き、ネーフェに紹介して弟子入りをさせたことでしょう。




 当時、国民劇場の音楽監督だったネーフェの予言です。

 「この子はこのまま進めば、モーツァルトの再来になる」




 まさにその通りになり、200年以上たった現在でも、世界中で数々の名曲が愛され続けています。




 しかし、本人でなければわからないことですが、父のヨハンは充実した納得いく人生を送ることができたのか、疑問に思う人が多いのではないでしょうか。




 1740年、ヨハンはドイツのボンで生まれました。

 彼の父親、つまりベートーヴェンの祖父に当たる人は、宮廷歌手でした。




 ベルギー生まれで、ケルン選帝侯クレメンス・アウグストに認められて、21歳のときボンの宮廷歌手になりました。




 その後、宮廷楽団を率いる活躍ぶりで、歌手として大成した人物と言われています。




 その父親の影響でしょうか、ヨハンは1752年、無給の宮廷歌手になりました。

 まだ、12歳だったのです。




 1764年、宮廷テノール歌手として登録され、給料をもらうことができるようになりました。

 3年後には、マリアという女性と結婚しました。




 彼女が後に、ベートーヴェンの母親になる人です。

 慎ましく寡黙な、愛情あふれる女性でした。




 後にベートーヴェンがウィーンに出て、音楽で頑張ることができたのはこのマリアの存在が大きかったと思います。




 母親のために立派な音楽家になろう、と決意していたからです。





 ヨハンの歌手生命は酒飲みの不摂生であまり長くは続かず、大成することはありませんでした。





 ここに大きな心労があったと考えられますね。





 家計を父の名声と稼ぎに頼っていたヨハンは、父が亡くなるととたんに困窮します。

 普通ならば、自分が何らかの仕事で働いて家族を養おうと考えるでしょう。





 しかし、ヨハンは子どもに頼ったのです。

 「起きろ、おまえはモーツァルトの何倍も練習しなけりゃ、天才音楽家とは呼ばれないんだ」





 自分は酒びたりで酔って夜遅く帰り、寝ている幼いベートーヴェンをたたき起して、強制的にピアノのスパルタ教育を課したのでした。





 これは困った父親ですね。


 1778年、ケルンへの演奏旅行のときのことです。




 「お父さん、僕は7歳なのに、どうして6歳って紹介するの?」

 「モーツァルトは6歳で天才ピアニストと言われたからだ。」




 インチキですね。




 年をごまかして世間の評判をとろうとしたのです。

 ヨハンは典型的な放蕩者で、わずかな稼ぎも飲んでしまうため、家計は常に困窮していました。





 息子の才能に目をつけて、宮廷や貴族にベートーヴェンを引き合わせて、パトロンになってもらおうとしたのです。


 当時の音楽家は、王侯貴族のために作曲や演奏活動をすることが一般的でした。





 現在のように、芸術として広く一般国民が楽しむ機会はそれほど多くなかったのです。

 まさに音楽は、王侯貴族の特権のようになっていました。





 それを一般大衆に広げ、芸術性を高めていったのが息子のベートーヴェンだったのです。

 ヨハンは、もしかして劣等感をもっていたのではないでしょうか。





 父親は歌手で大成し、息子は類まれな優れた才能を発揮し始めている。

 毎晩深酒に走ったのも、このストレスが関係しているのではないかと思います。





 妻マリアに先立たれると、ますます酒びたりになりました。

 名声と権威、富にとらわれ、振り回され続けた一生ですね。





 彼がもう少し解放された意識をもち、自分自身を認めて受け入れる。





 こんな生き方をすれば、深酒に逃げないで、より健康的な人生を送ることができたと思うのは僕だけでしょうか。
9 レオポルト・モーツァルト (1719年 ~ 1787年)






~富と名誉で家族の健康を犠牲にした大作曲家の父~






 あの有名な大作曲家、天才モーツァルトのお父さんです。

 レオポルトは、世界の音楽に大きく貢献した偉人と言えるでしょう。




 姉のナンネルと弟のウォルガングという二人の天才音楽家を育てあげました。

 音楽教育を目的とした、通称 「ナンネルの楽譜帳」 は、世界中で高く評価されています。




 しかし、レオポルトには7人の子どもがいましたが、成人したのは三女のナンネルと三男のウォルガングの2人だけだったということも事実なのです。




 1719年、僕たちの日本では江戸時代中期、8代将軍徳川吉宗の享保の改革が始まった時期にあたります。




 レオポルトは、ドイツの南部、ミュンヘンに近いアウクスブルクで、製本師の長男として生まれました。




 1737年、オーストリアのザルツブルクの大学に入学して、哲学と法律を学ぶはずでした。

 ところが、音楽の魅力にとりつかれて熱中したため、2年後に退学になってしまいました。




 親にとっては残念なことだったことかもしれませんが、後世に生きる僕たちにとっては、大作曲家モーツァルト誕生の第一歩になったともいえそうですね。




 レオポルトは作曲家、ヴァイオリニスト、音楽理論家として活躍します。

 彼の夢は、大都市の宮廷楽長になることでした。




 当時の音楽家では最高の栄誉であり、最高の地位だったのです。




 結論を先に言えば、彼は1763年に副楽長にまではなることができましたが、その後終生、楽長になることはできませんでした。




 このストレスは、幼い子どもたち2人を次々に演奏旅行に連れていき、ハードな旅行に明け暮れる原因の一つにもなったのです。




 1762年、ミュンヘンに旅立ちました。


 ナンネル11歳、ウォルガングは6歳という幼さでした。




 彼らの演奏を聴いたバイエルン選帝侯、マクシミリアン3世は絶賛しました。




 「すばらしいぞレオポルトよ、おまえはこの子たちの親だろう。

 なぜこの天才たちの演奏をもっとたくさんの人々に聴かせようとしないのか」




 (この子たちには人々を幸福にする力がある。
 



  あのバッハやヘンデルのように、世界中から愛される音楽家になれるのか。

  ならば、どんな手を尽くしてでもやらなければならない)




 レオポルトはこう考え、あとはまっしぐらです。




 ウィーン、ミュンヘン、パリ、ロンドン、オランダ、イタリアなど、過酷な演奏旅行を次々と行いました。




 特にロンドンでは公開演奏会を覚え、大きな収入を手にすることができました。




 しかし、途中でナンネルが倒れ、ウォルガングも結節性紅斑(けっせつせいこうはん) や天然痘などで何回も倒れました。




 レオポルト自身も、別の病で倒れています。




 こうなるとさすがに妻のアンナは、健康のことを考えて無理な演奏旅行を控えるように夫に進言しました。





 しかし、夫のレオポルトは聞く耳をもちません。

 それどころか、妻に暴力をふるって従わせたのでした。





 ウォルガングの結婚にも、猛反対しました。

 「天才の息子には名家の嫁を」 という考えだったからです。





 激しい剣幕で、執拗に手紙で息子を説き伏せようとしましたが無駄でした。

 地位と名誉を重んじる生き方ですね。





 背景に差別意識が横たわっていることは明白です。

 極めつけは、妻アンナが演奏旅行中のパリで病死してしまったことでしょう。





 ウォルガングも、死因は諸説ありますが、レオポルトの死から3年後、わずか35歳の若さで亡くなっています。





 僕もモーツァルトの美しい音楽を愛するファンの一人です。





 しかし家族の立場に立てば、父親があとわずかでも健康に注意してもよかったと考えられます。





 レオポルトが差別意識から少しでも解放されていれば、もっと豊かな人生を送ることができたのではないでしょうか。
 8 フリードリヒ大王 (1712年 ~ 1786年)






~疑い深い老人として孤独死したプロイセンの大王~






 ドイツ北方の小国、プロイセンを強大化させ、ヨーロッパ列強諸国の一つに仲間入りさせたフリードリヒ2世。




 この功績から、彼はフリードリヒ「大王」 と呼ばれています。





 オーストリア継承戦争や七年戦争で、オーストリア帝国の女帝マリア=テレジアと争い、現在のポーランドにある、豊かで広大なシュレジエン地方を手に入れました。





 しかし、大王とまで呼ばれた彼の晩年は幸福なものではなく、孤独なものであったといわれています。





 なぜなのでしょうか。





 1712年、彼は厳格、武骨者で芸術を解さない「兵隊王」 とあだ名されたフリードリヒ1世の王太子として生まれました。




 国内の大男たちを集めて「ポツダム巨人軍」 を編成し、ドイツの前身であるプロイセン王国の軍事強化に熱心に取り組んでいました。




 これに対し母親は、イギリス国王兼ハノーバー選帝侯、ジョージ1世の娘で、洗練された宮廷人でした。




 両親の教育方針は全く正反対で、事あるごとに2人は対立していました。





 しかし、本来のフリードリヒはむしろ母親似で、生来芸術家気質で特に音楽を好みました。

 フルートの演奏会を開いたこともありました。





 父王はそんなフリードリヒに暴力を振るい、食事を与えず、蔵書を取り上げるなどの虐待に等しい仕打ちをしています。





 1730年、耐えられなくなったフリードリヒは、イギリスに逃亡しようとしましたが、その日のうちに連れ戻され、キュストリン要塞に幽閉されました。





 さらに父王は、彼を処刑しようとまでしました。

 やむを得ず父王に手紙を書いて恭順の意を示し、やっとの思いで釈放されたのでした。





 ところが、彼の逃亡計画を手引きして加担したカイト少尉は、フリードリヒの目の前で処刑されました。




 フリードリヒは窓からその斬首の刑を見るように強制されましたが、正視できぬまま失神したのでした。





 この父親、何とかならなかったのでしょうか。





 あくまでも自分の意のままに息子を育てるためには手段を選ばず、妥協を許さなかったものすごい父親だったのですね。




 この段階で、フリードリヒの基本的人権はことごとく無視されています。




 1740年、父王の死に伴って、彼は第3代プロイセン王として即位します。

 フリードリヒ2世の誕生です。




 優れた軍事的な才能と、合理的な国家経営でプロイセンの強大化に努めました。




 戦争に勝利するだけでなく、啓蒙思想を掲げて「上からの近代化」 も目指したので彼は啓蒙専制君主の典型と言われています。





 また、国内にジャガイモ栽培を広め、自ら毎日ジャガイモを食べるという率先垂範の行動を通して、食糧事情の改善にも大きな役割を果たしました。




 しかし、彼が本当にやりたかったことは、戦争で領土を広げることだったのでしょうか。




 国王という責任の重い立場で、国家に仕えることが自己目的になってしまっていたとも考えられます。




 フリードリヒは学問と芸術が好きで、哲学者のヴォルテールとも親密に交際しました。

 自ら哲学的な書物も書き、出版もされました。




 趣味のあう友人たちを集めて自由に楽しみ、優雅な余暇を過ごしたこともあります。

 僕はここに彼の本来の姿を見るような気がします。




 でも、国王になり、大王とまで呼ばれてしまっては後には引けなかったのですね。




 「戦争」 という、彼が本来やりたくなかったことを、やらざるを得ない立場になってしまったからでしょうか。
 



 晩年のフリードリヒは、恐ろしいほどかたくなで、人間嫌いの性格になってしまいました。

 何十万人という人々を殺した人間の地獄、悲惨の極みを見てしまったからでしょう。




 自分自身に対しても、他人に対しても厳しく仮借なき献身を要求しました。

 一人一人の人間よりも「国家」 が優先なのです。




 そして、孤独な疑い深い老人と化したのでした。




 死ぬ直前までまじめに仕事をし、最期は飼っている愛犬と葬られたいという希望を部下に伝えています。





 「国王」、それは身分的な重圧ですね。




 彼がこの心労から解放されていれば、もっと豊かな晩年を過ごすことができたのではないかと考えるのは僕だけでしょうか。
7 ジョージ1世 (1660年 ~ 1727年)





~国民と家族から見放され発狂したイギリス国王~





 日本でいえば、江戸時代の中ごろにあたります。



 当時のイギリスは、イングランドとスコットランドが合同して、大ブリテン王国が成立していました。




 世界最強の軍事力をもち、政治や経済的にも安定して、世界の中心的な国家になっていました。


 この輝かしい時代に、イギリス国王として君臨したのがジョージ1世です。




 しかし、彼は国民から愛されず、妻子からも嫌われ、あげくの果てに恐怖から発狂して死亡する不幸な人生を送りました。





 なぜでしょうか。





 まず、彼はイギリス人ではありません。

 英語が話せないドイツ人で、ハノーバー選帝侯という貴族でした。




 結婚前から愛人をもっていました。

 1688年、ジョージが28歳のとき、美女と評判の高いゾフィー・ドロテアと結婚しました。




 しかし彼は、自分の容姿にコンプレックスをもっていました。

 だから美人が苦手で、不美人と噂される愛妾が2人いたのです。




 ゾフィーとの間には一男一女を設けましたが、基本的に妻を嫌って相手にしませんでした。

 そんな中で、妻ゾフィーは不倫に走ります。




 相手はスウェーデン貴族、ケニヒスマルク伯爵でした。




 この事実を知ったジョージは、ケニヒスマルク伯爵の抹殺を命令し、妻は自分の故郷、ドイツのハノーバーにあるアールデン城に幽閉したのでした。




 この監禁は妻ゾフィーが亡くなるまで、延々と32年間も続いたのです。




 自分は愛人を2人もっていながら、この仕打ちでは誰が考えても納得できるものではないでしょう。




 女性差別とも考えられますね。




 1714年、どういうわけか、彼は54歳でイギリス国王に即位します。

 ジョージ1世の誕生です。




 その戴冠式、ロンドン市民は異例な様子を噂し合います。

 王妃の出席がないからです。




 王妃のゾフィーはイギリスにいるどころか、ドイツのハノーバーに監禁されたままだったのですね。



 ところで、なぜジョージ1世がイギリス国王になったのでしょうか。




 それは、このときイギリスの前女王アンがなくなり、スチュアート朝が絶えてしまっていたからです。




 イギリス議会は彼に白羽の矢を立てます。


 理由は、彼の母がイギリス王ジェームス1世の孫だったからです。




 そして、ジョージ1世は英語を話せないので、イギリスの政治に口出しできないというわけですね。




 つまり、ジョージ1世はイギリス議会の都合で国王にさせられたということなのです。

 彼がイギリスの政治に興味を持たなかったのもうなずけますね。




 彼に始まる王朝はハノーバー朝と呼ばれ、現在の王室ウィンザー朝の直接の祖先にあたります。




 息子のジョージ(後のジョージ2世) は、母が長い年月にわたって幽閉されたことを恨み続け、父の死に至るまで、徹底的に父に反抗しました。




 父のジョージ1世は、イギリスの長い歴史の中でも、最も国民から人気がなかった国王と言われました。



 陰気な醜い男で、イギリスの実情を知ろうともせず、政治は首相ウォルポールに任せっきり。




 ロンドンにはあまりよりつかず、故郷のハノーバーで遊んでばかりいるので、全く働かないという評判になってしまいました。




 1727年、運命の年がやってきます。




 ハノーバーを訪問して帰国する途中のジョージ1世の馬車に、一通の手紙が投げ込まれました。


 それは、アールデン城で32年間監禁されて亡くなった妻ゾフィーの遺書だったのです。




 これを読んだ彼は、恐怖のあまり心臓発作を起こして倒れ、その後正気を取り戻すことなく、7か月後に亡くなりました。





 その心労は、僕たちの想像を絶するものだったのではないでしょうか。





 敵ばかりですね。





 権力と差別意識から解放されていれば、もっと明るく健康的な生活を送ることが可能だったと考えるのは僕だけでしょうか。