6 足利義尚(よしひさ) (1465 ~ 1489)3uwl1b






~権力争いと家庭不和に翻弄されて若死にした将軍~






 室町幕府の9代将軍です。

 銀閣寺で有名な、8代将軍足利義政の息子といったほうがわかりやすいでしょうか。




 父は芸術を見る目は超一流と噂され、東山文化を築いた文化人です。




 この時期になると幕府の権威も衰え、守護大名への抑えがなかなか効かなくなっていた時代です。




 そんな中でも義尚は、歴代の将軍には珍しく、自ら出陣して守護大名と勇敢に戦いました。

 しかし、彼の寿命はわずか25年。




 この早すぎる死の背景には、いったい何があるのでしょうか。




 義尚の母親は、日野富子です。

 彼女も歴史上の有名人の一人ですね。




 その金と権力をめぐった悪女ぶりを描いた書籍が、多数出版されています。

 義尚が生まれる以前に、すでに将軍の権威は地に落ちたも同然の状態でした。




 1441年、嘉吉の乱(かきつのらん) で6代将軍足利義教は、守護大名の赤松満祐(みつすけ) の罠にかかり、暗殺されていたのでした。




 その後、9歳で即位した息子の義勝も急死、その弟の義政はわずか8歳で8代将軍に就任したのでした。

 これでは思うようになるはずがありませんね。




 もともと政治にはあまり関心がなかった義政は、趣味に走ることになりました。

 結婚後、妻の日野富子との間に男子が生まれましたが、不幸にも夭逝。




 1465年には政治に嫌気がさし、将軍引退を決意します。

 この時点で後継者になる子どもがいなかったので、出家していた弟の義視(よしみ) を呼び寄せました。




 自分の後の9代将軍になってほしいので、還俗(げんぞく) して準備をせよ、ということですね。

 「もしその後に富子が男子を産んだら、すぐに出家させる」 という約束までしました。




 後見人は実力者、管領の細川勝元です。

 しかし、これが結果的に二枚舌になってしまったのです。




 よりによって、この約束をした翌年に義尚が生まれたのでした。

 将軍の子を再び産んだ妻の富子は、予想通り黙っていませんでした。




 有力守護大名の山名宗全(やまなそうぜん) を後見人につけて対抗してきました。

 天下の大乱、応仁の乱の始まりです。




 1467年のことです。




 有力守護大名の畠山氏や斯波氏の後継者問題も絡んで、約10年間にわたって京の都は戦場になり、無残にも焼け野原になりました。




 この世の地獄のような風景になってしまったのです。

 結局1473年に、義尚は9代将軍になり、77年には乱が終了しました。




 しかし、引退した義政は東山山荘づくりに夢中で、政治には無関心。

 富子は関所を勝手につくって通行税をとる金儲け一筋の毎日でした。




 庶民にとってはいい迷惑ですね。

 後土御門天皇との不適切な関係も噂されました。




 こんな両親に、成長した義尚が反抗しはじめます。

 しかし若い義尚は、金と女性に毒されてしまいました。




 次第に政治の刷新には見向きもしなくなっていきました。

 父義政の愛妾を平然と奪って、自分のそばに置いたり、貴族の娘を愛妾にしておきながら虐待したりしたのです。




 このことで義政とは大喧嘩になりました。

 髪を落として出家する寸前まで行きました。




 両親は別居、親子三人でまたしても大喧嘩をする始末です。

 現在でいう家庭崩壊ですね。




 それでも義尚は室町幕府の将軍です。

 両親に反抗をしながらも、幕府を立てなおそうと努力しました。




 荘園を守ろうと、近江の六角氏を従わせるために自ら出陣しました。

 しかし、長い間のもめごとによる心労がたたったのでしょう。




 体調は不調です。

 下痢とひどい黄疸に悩まされました。




 1489年3月、ついに義尚は若干25歳の短い生涯を終えました。

 ある意味では、両親の犠牲者だったのかもしれません。




 何とかならなかったのでしょうか。




 義政と富子はその後も生きていたのですから。
5 足利持氏(もちうじ) (1398 ~ 1439)3uwl1b






~将軍の地位にこだわり自殺に追い込まれた鎌倉公方~






 鎌倉公方というのは、室町幕府の出先機関の一つである鎌倉府の長官です。

 2代将軍足利義詮(よしあきら) の弟である基氏(もとうじ) が初代です。




 持氏は4代目でした。

 足利将軍家の分家ですね。




 将軍家と同じように、尊氏の血をひく名門で、誇り高き家系でした。

 関東や東北などの東国の管理を任され、事実上の独立国のような大きな権限をもっていました。




 その持氏は、最終的に自殺という幕切れに追い込まれました。




 なぜなのでしょうか。




 1409年、持氏は父親の死によって鎌倉公方に就任しました。

 若年11歳ですね。




 現代でいえば小学校の5年生です。

 東国を治めるには少し無理があると考えられますね。




 なめられたのでしょうか。

 叔父の足利満隆(みつたか) が謀反をおこします。




 鎌倉府の公方の補佐役は関東管領といいますが、この役に就いていた上杉禅秀(ぜんしゅう) と満隆が組んで、クーデターをおこしたのです。




 持氏は鎌倉を追われて、駿河に追放されてしまいました。

 この事件を歴史上、上杉禅秀の乱といいます。




 京都の幕府では、新しい鎌倉公方を認めるか、という意見もありましたが、4代将軍足利義持は軍勢を差し向けてこの乱を鎮圧しました。




 この決断の陰には、義持の弟、義嗣が陰で糸を引いていたという噂があったのです。

 後に義持は、義嗣も殺しました。




 東を見ても西を見ても、血で血を洗うような権力争いばかりですね。

 その背景には差別心が渦を巻いています。




 おかげで足利持氏は、鎌倉公方に復帰することができました。




 せっかく復帰できたのだから幕府に感謝して、東国の民衆のために良い政治を行おうとしたのでしょうか。




 ところが、そうではなかったようです。

 持氏が次に狙ったのは、将軍の座でした。




 絶好の機会が巡ってきました。




 1425年、5代将軍足利義量(よしかず) が10代の若さで急死し、その3年後には将軍の代理を務めていた4代将軍だった義持も、後継ぎを決めないまま病死したのです。




 6代将軍が空席になってしまったのですね。

 持氏の声が聞こえてきます。




 「私こそ次の将軍である」

 息巻いて、鎌倉から京へのぼる心の準備をしたことでしょう。




 ところが、事態は意外な決着で終わりました。

 何と次の6代将軍は「くじ引き」 で決まったのです。




 義持の子どもはいなくなっていましたが、出家して寺に入っていた弟たちが4人ほどいたからです。



 こうして寺から還俗(げんぞく) して即位したのが、6代将軍足利義教(よしのり) です。




 「ふざけるな。

  そんな無責任な決め方でいいのか」




 持氏の声は、ある意味で国民の声を反映しているとも考えられますね。

 同時に、権力への欲望はきりがないともいえます。




 この不満から、持氏は数々の悪態をつきます。

 まず足利義教を「還俗将軍」 と呼んで馬鹿にしました。




 そのほか、室町幕府の慣例や、将軍からの要望や挨拶なども無視し続けました。

 こうなると部下も心配になります。




 関東管領の上杉憲実(のりざね)は、鎌倉公方と将軍の対立を避けるため、懸命に努力をしましたが、持氏は逆に憲実を遠ざけるようになっていきました。
 


 そしてついに、憲実は関東管領を辞職せざるを得なくなったのです。




 かくして合戦です。

 将軍義教は持氏追討の軍をおこしました。




 上杉憲実も将軍側につきました。

 天皇の命令である綸旨(りんじ) も出され、持氏は孤立無援であっけなく敗れてしまいました。




 1439年、持氏は自殺という悲しい結末で、一生を閉じることになったのです。




 それにしても、一般庶民の視点から見れば、東国の主という恵まれた環境です。




 自分の意識の持ち方一つで、部下や庶民と共に、もっと解放された賢く楽しい人生を送ることができたのではないでしょうか。
4 足利義量(よしかず) (1407 ~ 1425)3uwl1b






~飼い殺し状態で若い命を落とした室町の虚弱将軍~






 「花営三代」 という言葉をご存知でしょうか。

 足利幕府の第3、4、5代将軍である義満、義持、義量の時代を指します。




 合わせて約60年間で、室町幕府の黄金時代になります。

 京都の美しい「花の御所」 を本拠とし、室町時代では最も安定した時期でした。




 恵まれた環境の中で、義量はこの中の一人、5代将軍として歴史にその名を残すことになりました。



 しかし、彼の将軍としての在職期間はわずか2年余り。




 19歳で亡くなっています。

 なぜなのでしょうか。




 1407年、義量は4代将軍足利義持の嫡男として生まれました。

 彼も生まれながらにして、将軍になることを約束されたような立場ですね。




 しかし、父親の義持は違いました。

 形の上では4歳で将軍職を継ぎましたが、実権は何もありませんでした。




 さらに、義嗣(よしつぐ) という弟がいて、3代将軍義満は、いずれこの義嗣を将軍にと考えていました。



 弟のほうは寵愛し、兄の義持はうとまれていたのです。




 義満の急死により、やっと実権をもてたのでした。

 このことがあったからでしょう。




 義持は元服した唯一の自分の子どもである義量を寵愛し、将軍になることを確かなものにしたかったのだと思います。




 ちなみに、邪魔者になる弟義嗣は、寺に幽閉し、火をかけて殺しています。




 自分の参詣や参籠、遊覧のときには、ほとんど義量を同行させました。

 次の将軍は義量だ、ということをアピールしていたのでしょう。




 政治も義満のやり方をことごとく変えました。

 明の家臣としての扱いを嫌って、勘合貿易もやめました。




 しかし、当の義量は生来から病弱でした。

 疱瘡も患っています。




 幕府が京都にあったので、貴族とのお付き合いで飲酒の機会も多かったのでしょう。

 5歳のころから自分の虚弱体質を顧みず、飲酒していました。




 15歳のとき、朝から晩までの大酒飲みを父の義持に戒められ、近臣たちは義量に酒を勧めないよう起請文をとらされました。



 
 15歳といえば、現在では中学3年生にあたります。




 どう見ても健康に良いとは思えませんね。

 1423年、義量は晴れて5代将軍になります。




 このとき彼は17歳。

 父の義持もまだ38歳の若さで健在でした。




 「だいじょうぶなのか、あんな頼りないので」

 家臣たちの言葉です。




 これを敏感に察知した父親の結論は、次の一言でした。

 「実権はやはり自分が持とう」




 しかし、これが裏目に出ました。

 義量は将軍とはいえ、何も権限がなく、単なる飾り物になってしまったのです。




 不満とストレスを紛らわせるために、ますます酒びたりの生活になっていきました。

 僕もわずか一週間でしたが、何もやることがないという状態に追い込まれたことがあります。




 将軍とはだいぶ立場が違いますが、行政職を3年間やったことがあります。

 遺跡の発掘調査を命じられたのです。




 考古学が専門ではない僕にとって、ここは未知の世界でした。




 着任した4月の最初の1週間、上司から「本を読め」 という指示を受けて、朝から晩まで難解でわかりづらい発掘の報告書を読みました。




 このときはまだ、研修制度が整っていなかったのですね。

 上司からはあまり親切に教えてもらえませんでした。




 その後は改善されたようですが、正直言って、このときはとても辛かったです。

 こんな思いをするなら、「忙しいほうがよい」 とさえ思いました。




 その期間が過ぎたらある程度やることが出てきて、たくさんの貴重な体験をさせていただきました。



 今では感謝しています。


 義量の心労は、はたから見るよりずっと深刻だったと考えられます。




 彼の早い死は、この心労と無関係ではないでしょう。

 何とか、この理解されにくい地獄から脱出する方法はなかったのでしょうか。
3 足利義詮(よしあきら) (1330 ~ 1367)3uwl1b






~度重なる戦争と心労で若死にした南北朝時代の将軍~






 室町幕府の2代将軍です。

 名前が読みにくいですね。




 義詮(よしあきら) といいます。

 彼の父と子が歴史上の有名人なので、あまり目立ちません。




 足利尊氏の子であり、足利義満の父親といったほうがわかりやすいかもしれません。




 室町幕府の黄金時代への基礎づくりを行い、文人としても連歌や和歌が多く後世に伝わっています。




 しかし、彼の寿命はわずか38年。

 この短い生涯の背景には、いったい何があるのでしょうか。




 1330年、義詮は後に室町幕府を開く足利尊氏の3男として生まれました。

 当時はまだ鎌倉時代で、父の尊氏は鎌倉幕府の御家人の一人でした。




 兄に直冬(ただふゆ) がいましたが、義詮の母親が正妻の登子(とうし) だったので、最初から嫡男として尊氏の後継者になりました。




 ちなみに登子は、鎌倉幕府の執権、北条守時の妹で、直冬は尊氏の弟、直義(ただよし) の養子になりました。




 不幸にも、後に直冬と義詮は対決せざるを得ない状況に追い込まれます。




 1333年、義詮は北条高時の命令により、人質として鎌倉に留め置かれました。

 わずか3歳の幼少にして、早くも命のピンチですね。




 父の尊氏が、後醍醐天皇の元弘の変で、幕府側として出陣することになったからです。

 しかし、家臣たちの配慮で鎌倉を脱出することができました。




 後に父が朝廷側につき、新田義貞が倒幕軍をおこしたときは、200騎を率いて新田軍に参加しました。



 これで一応、幕府権力からは解放されたことになりました。




 ところが、意外なことがおこりました。

 1335年、北条氏の生き残りであった北条時行が挙兵したのです。




 義詮は、鎌倉から逃亡する羽目になってしまいました。




 中先代の乱(なかせんだいのらん) と呼ばれるこの戦闘で、一旦は鎌倉を取り戻します。




 ところが、同年南朝方の北畠顕家(きたばたけあきいえ) が東北から関東に進軍し、敗れた義詮はまたしても鎌倉から撤退しています。




 目まぐるしいですね。

 これだけでも落ち着いている暇がありません。




 室町幕府が開かれてからも、なかなか落ち着きません。




 京都で将軍の後継者として居座れるかと思ったら、叔父の直義が尊氏と対立し、京都へ攻めてきたのです。




 敗れた義詮は丹波へ逃亡。

 また、南朝方にも攻められ、今度は近江へ逃亡。




 この間に義詮暗殺計画が発覚し、またまた美濃へ逃亡というありさまです。

 これでは命がいくつあっても足りません。




 やっとのことで京都や鎌倉を奪い返しましたが、いつ死んでもおかしくない戦乱の中での2代将軍就任だったのです。




 将軍になっても相変わらず戦いばかりです。




 家臣の中で内紛が生じ、1362年にはまたしても南朝方に京都を攻められ、義詮は後光厳天皇とともに近江へ逃亡しました。




 全国がまだ、完全には統一されていないのですね。


 室町幕府と将軍の権限を守るためとはいえ、想像を超える心労の連続だったと考えられます。




 最初から家臣であるよりも、生まれながらの将軍という地位を背負っていたほうが、むしろ本人の負担は大きかったのではないでしょうか。




 自分の死期を悟ったときにも、後継者の義満はまだ幼少。

 不安だらけですね。




 「太平記」 によると、義詮は「他者の口車に乗りやすく、酒色に溺れた愚鈍な人物」 と酷評されています。




 その一方で、「中国地方を統一し、京都や鎌倉を奪い返した軍功もあり、将軍の権力を高めた。


 幕府政治に安定をもたらすきっかけもつくった」 という評価もあります。




 いずれにせよ、権力維持に振り回された、過酷な一生だったのではないでしょうか。




 直接の死因ははっきりしませんが、彼の短い生涯に、数々の心労が大きく関係していると考えるのが自然だと思います。