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~教務が年度途中で教頭に~  囲む会で胴上げ・・・?



 「出なければよかった」・・・同調圧力に負けて参加した飲み会です。高い会費と貴重な自由時間を失いました。11月頃だったでしょうか。


 僕が勤務していた同僚の研究主任、原山さん(仮名)からの呼びかけです。「教務主任の桑山さん(仮名)がこのたび教頭先生になられます。


 祝賀と激励の会を開きますので、希望される方はぜひご参加ください」朝の職員朝会でのことです。今から思えば「希望」という名の「強制」と考えるのが事実に近いでしょう。


 強制という名の「鍵」などかかっていないはずなのに、なぜか参加しなければいけないという雰囲気が強い学校でした。一瞬どうしようかと考えました。


 当時まだ若かった僕は、桑山さんからいろいろと指導してもらった恩があります。同時にその反対が半分。常に上から目線で多くの職員に接していました。


 「指示」「お願い」という名の命令が多かったのです。職員にも生徒たちにも常に管理的で、今から思えば教育職の多忙化を促進しているような方でした。


 実際に宴会が始まると、参加者はそれほど多くなかったと記憶しています。数十人いる全職員のうち、半数もいたかいなかったかくらいでした。


 まずここで違和感。この席は本当に自分がいるべきところなのか。次に、宴たけなわのころ原山さんが言いました。「皆さん、桑山さんを胴上げしましょう」・・・


 「えっ?本当にやるの」と思いましたが、突然のことなので言われるがままに流されてやることになりました。この時にまたしても違和感を感じました。


 今から思うと参加者は現職の校長と教頭、管理職予備軍と呼ばれる教員とその支持者、そして僕のような判断力が未熟な者の集まりだったような気がします。


 冷静に分析すると、社会的身分差別の意識から解放されていなかった人たちの集まりだったと考えられます。残念ながら当時の僕自身もその中の一人だったのですね。


 ヨーロッパに、この社会的身分差別から解放されたと考えられる世界史上の個性的な国王がいます。イギリスのエドワード8世です。


「王冠をかけた恋」という代名詞で、本国イギリスを始め世界中で知られています。彼は結婚の自由のために王位を捨てた人物です。


 36歳の時のお相手は34歳のウォリス・シンプソンという名の女性でした。


 結論を先に言えば、エドワード8世は彼女との結婚のためにイギリス国王の身分を堂々と捨てたのでした。 彼は結婚を決めたとき、あちらこちらから妨害されたのです。


 ウォリス・シンプソンには2度の離婚歴がありました。特に社会的地位もなく、美人ともいわれないアメリカの平民でした。


 イギリス王室の規則では、国王は離婚経験者とは結婚できないことになっていました。


 離婚経験者のどこがいけないのでしょうか。この規則自体が差別的だと思うのは僕だけでしょうか。イギリス王室だけでなく、内閣、マスコミからのバッシングに至るまで騒然となりました。


 それまでのエドワード8世は、国王に対するお世辞に慣れてうんざりしていました。多くの女性とつきあいはしましたが、社会的地位が優先し、むなしさを感じていました。


 ウォリスにはそれがないのです。気取らず、飾り気のない物言い、温かみのある態度。彼は初めて自分を「人間扱い」してくれる女性に出会ったのです。


 勇気を出して国王よりも「人間として」生きる道を選んだのですね。社会的身分差別から解放されたこの決断。国内からの同調圧力にも決して負けませんでした。


 僕が本当に胴上げしたかった拍手喝采を送りたい歴史上の人物です。
~指導主事の見送り強制~  「そういうもんだ」・・・?


 僕が今まで勤めたことのある学校はどこへ行ってもそうですが、教職員の飲み会は本当に多かったです。何か行事があるたびに、やれ反省会だ、やれ激励会だ、などという具合です。


 年に少なくとも10回以上、多ければ20回前後にもなります。どの学校も参加して当然という雰囲気があり、飲み会を休むなどということは何か特別な事情があるときだけでした。


 自分の意志ではとても休みにくかったです。みんなストレスがいっぱいたまっていたのでしょう。 その中でたった一度、こんなことがありました。


何かの研究会の反省会と称する飲み会だったと思います。


勤務校の教職員はもちろん全員参加し、氏名は知りませんが指導主事と呼ばれる教育委員会の職員もお客さんとして参加していました。


宴たけなわで、僕も結構楽しく同僚と歓談していたときです。年配の教員である桑山さん(仮名)から突然言われました。


「お客さんが帰られるから玄関までお送りしなさい」 僕はとっさに 「えっ?なぜですか」


 命令口調だったのでカチンときました。彼の返答は一言です。「そういうもんだ」・・・ 諭すような言い方にまたカチンときましたが、あきらめて言われた通りにしました。


桑山さんは管理職ではありません。同僚たちからも嫌われていました。一方的な命令口調が多かったからです。 「あの先生、管理職でもないのに・・・」


 日頃からこんな不満が職員たちにうっ積していました。校長や教頭とはベッタリで、出世意欲丸出しの方でした。管理職予備軍です。 当時の僕は勤務校の最年少教員。


世の中には中身よりも 「形が大切」な時もあるということを若い後輩に教えようとしていたのでしょうか。ならば、「そういうもんだ」には感謝するべきです。


でもこれは半分。残りの半分は社会的身分差別により、人を見下した発言とも考えられます。僕だけでなく、他の教職員に対しても命令口調で見下した態度が日頃から目立っていました。


嫌な思いをする人が多く、よく職員間の噂の種になっていました。


 この社会的身分差別からきっぱりと解放されて生きた歴史上の人物がスウェーデンにいます。クリスティーナ女王です。父王の死により6歳で王位を継ぎ、18歳で親政を開始しました。


ドイツ語やフランス語、イタリア語、スペイン語を話すことができ、ラテン語も話すことができる才女です。会議では議事を見事に裁き、三十年戦争も講和に持ち込んで戦争を終結させました。


学術振興にも努め、哲学者のデカルトをはじめ、多くの学者を招いています。 


しかし、6歳の時から政略結婚の申し込みが後を絶たず、まわりも「結婚を強制」しようとする動きすらありました。


クリスティーナ女王にとって、当時の結婚は男性への従属を意味していました。


これに簡単に応じれば、結婚相手に服従することになり、自分の良心に従って生きることはできないことを見抜いていたのです。


王という身分は権力者ではあるけれど、自分が本当にしたいことができるとは限りません。 彼女の結論はこうです。「王位をすてる」・・・


本当にあこがれていたのは南国文化であり、住みたかったところはイタリアです。1654年、王位を従兄に譲り、あこがれの地ローマに向かいました。


男装に身をつつみ、まるで逃亡者のようにスウェーデンを脱出。新居を構え、詩人、芸術家、学者と接しながら彼女の後半生をローマで全うしました。


社会的身分差別意識から解放されたからこそ、勇気をもって自分が自分らしく生きることを実行できたのですね。
~2種類の生徒の発言 「すげー」と「三流」~


 「先生どこの大学出たの?」僕が過去に勤めたA中学校の1年生の質問です。僕の返答に対する反応で、前者は加藤さん(仮名)、後者は須藤さん(仮名)という男子生徒でした。


 言い方を変えてみましょう。前者は「あなたは立派な学歴をもっていますね」となります。後者は「あなたは三流の学歴しか持っていませんね」ということですね。


 見事なほど対称的な生徒たちの反応でした。加藤さんにはともかく、須藤さんには「しまった」と思いました。 


 この後しばらくの間、学歴差別による「いじめ」を受けることになってしまったからです。


 彼は廊下で僕の顔をみるなり「三流」、「三流」とはやし立て、馬鹿にし続けました。2週間ほど続いたでしょうか。


 「そうなのかなあ」当時まだ教員経験年数が浅かった僕は、ただこう思っただけで生徒を適切に指導することもできませんでした。


 ただ幸いだったのは、彼に同調する生徒が誰もいなかったことでした。悔しい思いをしながらも、やがて自然消滅しました。 須藤さんは勉強がよくできる優秀な教え子の一人でした。


 小学校を卒業したばかりの4月。12歳です。中一の生徒から4月早々いじめられるとは思ってもいませんでした。でも冷静に考えてみると何か疑問に思えてなりません。


 この年頃の彼に大学の難易度ランキングなどわかっていたのでしょうか。「三流」という言葉は本当に彼自身からの言葉なのでしょうか。


 背後には親を始めとする大人たちの陰が見えるような気がします。ならば大人たちの代弁ですね。


 同じような質問は、その後A中学校の他の生徒からも、転勤後のB中学校でもありました。以後僕の答えは「東京の大学」にとどめることにしました。


 大切なことは過去ではなく、今現在です。目の前にいる生徒たちの前で何ができるか、何をしようとしているかということです。


 歴史上の人物で、学歴差別ではありませんが、学問そのものを権力者から差別的に扱われて攻撃された人物がいます。京都大学の教授で刑法学者の滝川幸辰(ゆきとき)です。


 1933年、彼の著書「刑法読本」が発禁処分にされ、文部省から強引に大学を休職にさせられてしまいました。


 これに抗議して、多数の教授たちが辞職し、1,300人もの学生たちも京大を退学しました。


 すさまじい抵抗で、歴史上「滝川事件」と呼ばれています。
 では、当時の文部省は著書「刑法読本」のどのような内容を問題視したのでしょうか。


1 犯罪は犯人の生活状態を改善しなければ少なくならない。刑罰によって犯罪をなくすこと
は不可能。

2 姦通罪について、妻の姦通罪だけを犯罪にし、夫の姦通を不問に付すのはよくない。

3 国家は革命家を敵として取り扱うのはよいが、道徳的に下等な人間として処置してはなら
ない。

4 犯人への報復的な刑罰を科すよりも、同情と理解をもって人道的に扱うべきだ。(4はト
ルストイの説を肯定したものです)

 文部省はこれらの内容を「共産主義的な危険思想」として断定したのです。はたして危険なのはどちらでしょうか。


 この年は国際連盟を脱退し、日中戦争、太平洋戦争へと突き進み、政府もつぶれてしまいました。滝川幸辰は戦後復帰して、京大の総長も務めました。


 この事件は日本の「反ファシズム運動の最後の輝き」と呼ばれています。
~学校要覧に職員の出身大学名を記載~



 学校要覧は保護者や地域の方々にわかりやすく紹介するために多くの学校で作成・発行されています。


 年間の授業、学校行事、生徒会活動、部活動など、その学校の良さ、特徴が写真や文章で表現されています。これから進学しようとしている生徒たちには必見のものですね。


 それぞれの学校ごとに創意工夫されています。校舎の写真や校長の挨拶分などはたいていの学校要覧には掲載されていますね。


 ところが、僕が今までに勤めたことがある学校の中で一校だけ、珍しいことが掲載されていました。


 A中学校としましょう。その学校要覧に、全教職員の氏名と出身大学名が堂々と記載されていたのです。


 これは個人情報でしょう。もう数十年前のことで、今でもやっているとは思えません。僕が今までに勤めた他の中学校や高校ではこのような記載は一切ありませんでした。


 A中学校では当然のことながら、生徒や保護者が教職員の出身校に興味を持ちました。 大学名の圧倒的多数はB大学です。いわゆる難関校の一つと考えられます。


 僕はC大学。同じ勤務校の教員で同窓の先輩が2人いましたが、全体としては少数派です。受験の難関校でもありません。今から思えば陰に陽に学歴差別にさらされていたと考えられます。


 職員間では結構出身大学の話題が出ました。特に飲み会のときなど、多数派の誇らしげな会話の場面があった事をいくつも覚えています。


 僕などは上から目線で見下され、馬鹿にされて呼び捨てにされたこともありました。その前に、僕が自分で自分を差別していたことも事実だと思います。


 歴史上の人物で、学歴差別と少し似た体験をした女性がいます。森 律子といいます。自分の母校から職業差別を受けて同窓会名簿から除籍されました。


 それでも差別に負けず自分の意志をつらぬき通しています。彼女は1890年、弁護士であり、代議士でもあった森 肇(はじめ)の二女として東京で生まれました。


 女優を目指した律子に対する父親の言葉です。 「家名を汚したらこれで死ね」 同時に短刀を渡されたのです。娘の命より家名が大切なのですね。


 彼女の弟もすごいです。第一高等学校(後の東京大学教養学部)に通っていましたが、次の言動はどうでしょう。 「姉が女優になるのが耐えられない」 と言って自殺してしまいました。


 これも差別はする側が不幸になるという典型的な事例と考えられますね。律子にとって女優になるということは命がけのことだったのです。


 他にもさまざまな誹謗中傷を受けましたが、1011年、帝国劇場でついに「女優・森律子」 が誕生しました。 


 大胆で愛嬌のある演技で、多くの観客を魅了した帝国劇場のスター女優になりました。


 律子の名前は 「帝劇全盛時代」 を築いた人として、同劇場の歴史にしっかりと刻み込まれました。女優という職業は、今でこそ華やかな印象を持つ人が多いですね。


 しかし、この時代はまだ社会的地位が低く見られていたのです。今では芸能界の歴史にはなくてはならない人でしょう。


 律子の母校、跡見学園女学校(後の跡見学園女子大学)は当時格式の高い良家のお嬢様が多く集まる学校でした。


 卒業生の女優・森 律子に対する仕打ちは 「河原乞食なんぞもってのほか」 と言って同窓会名簿から彼女の名前を除籍したことは上記の通りです。


 これでは 「自分たち同窓会は差別者です」 と公言しているのと同じですね。あれから約100年、この残念な事実は何か変化があったのでしょうか、まだ変わっていないのでしょうか。