4 菅原道真 (845 ~ 903)






~地方の生活を楽しめずに孤独死した平安の秀才~






 学問の神様として有名ですね。





 京都の北野天満宮や、九州の太宰府天満宮などは、毎年多くの受験生や修学旅行生などでにぎわいます。




 菅原道真(すがわらのみちざね) がまつられているからです。





 学問の才能に優れ、政治的にも右大臣という高い位に就きました。





 当時の天皇をはじめ多くの人々から、その優秀さと誠実な人柄を認められ、現在に至るまで歴史上の有名人の一人です。





 しかし、道真の最期は都から遠く離れた九州で、しかも憔悴(しょうすい) しきった病死でした。





 いったいなぜなのでしょうか。





 845年、道真は代々の学者の家に生まれました。

 出身地は奈良とも京都ともいわれて諸説があり、特定できていません。





 小さいころから文章博士(もんじょうはかせ) になるのが夢でした。

 文章博士というのは現代でいえば、大学教授に近い役職でしょうか。





 勤勉な彼は、18歳で文章生(大学生) になり、26歳で最高の国家試験に合格してからは役人の道も歩むようになりました。





 そして877年、33歳という若さで文章博士になったのです。






 886年、急に讃岐国(さぬきのくに) の国司に任じられました。

 現在の香川県ですね。






 これは形の上では出世ですが、道真にとっては実質的に左遷でしょう。

 「政治の世界も学者の世界も、ねたみと悪口ばかりだ」





 この一言に彼の心境が凝縮されています。





 京の都から離れるのが苦痛で、讃岐への送別の宴席では嗚咽(おえつ) して話すこともできず、その夜は一睡もしませんでした。





 4年後の890年、帰京して宇多天皇のもとでめざましい出世をしていきました。





 藤原基経(ふじわらのもとつね) と対等に渡りあって、わがままを引っこめさせたり、遣唐使を建設的に廃止したのもこのころです。





 辞退する道真を、半ば無理やり右大臣にさせたのも宇多天皇です。

 よほど信頼していたのでしょう。





 将来は関白にするつもりでいました。





 政治的野心はなかったようですが、天皇が次の醍醐天皇(だいごてんのう) に代わると事件が起きます。




 藤原基経の後を継いだ左大臣、藤原時平に出世をねたまれ、謀反の罪をでっちあげられたのです。





 たまたま道真の娘が醍醐天皇の弟に嫁いでいたことを利用されました。





 弟を天皇にして醍醐天皇を退位させようとしているというのです。

 真相は本人にしかわかりませんが、これを聞いた醍醐天皇は烈火のごとく怒ります。





 時平の言葉を真に受けたのですね。

 道真を左遷しました。





 行先は九州の太宰府です。

 途中の旅路では、食料や替えの馬の補給も許しませんでした。





 901年、劣悪な環境の中で道真の左遷の生活が始まりました。

 相当な心労だったのでしょう。





 わずか2年後、失意の中でこの世を去りました。

 都を懐かしむ歌、天皇を慕う歌や怨念のこもった詩もつくりました。





 次々と都に送りましたが、何の音沙汰もありませんでした。

 僕は、道真自身は政治的地位という出世にはあまりこだわっていなかったと考えています。





 しかし、2度の左遷に次のような共通点が見えるのではないでしょうか。






 「京の都にいたい、四国や九州はいやだ」





 

 四国や九州の生活を、もっと楽しむことができなかったのでしょうか。






 上から目線で地方を見下した意識をもっていたのではないかと考えています。

 地域差別的な意識ですね。






 都には都の良さがあり、地方には地方の良さがあります。





 地方の人々も同じ人間です。





 対等にもっと楽しく有意義に、九州で生きる道があったのではないでしょうか。
3 文徳天皇 (827 ~ 858)






~伯父に利用され摂関政治の土台を作って若死にした天皇~






 文徳天皇(もんとくてんのう) の伯父は藤原良房といいます。

 日本史上、臣下で初めて摂政になった人物として知られています。





 平安時代の摂関政治の基礎は、この二人の権力の奪い合いの結果、良房の希望に沿って築かれたと考えられます。




 文徳を天皇にしたのも良房、邪魔になったら遠ざけようとしたのも良房です。





 そして文徳はわずか32歳の若さで謎の急死を遂げました。

 いったい彼に身に何があったのでしょうか。





 少年時代の名は道康親王(みちやすしんのう) といいます。

 父親は仁明天皇(にんみょうてんのう)、母親は藤原順子で、良房の妹にあたる女性です。





 つまり、道康親王と藤原良房は甥と伯父の関係になりますね。

 仁明天皇は最初、恒貞親王(つねさだしんのう) という別の人物を皇太子にしていました。





 ところが、この恒貞親王が皇太子から引きずりおろされるという事件が発生しました。

 842年におこった承和の変(じょうわのへん) です。





 これは、伴健岑(とものこわみね) と橘逸勢(たちばなのはやなり) らが、嵯峨上皇死後の混乱に乗じて反乱をおこそうとしたという噂です。





 ここに恒貞親王が加わっていたというのです。

 真相ははっきりしませんが、これは藤原良房の画策でしょう。





 仁明天皇に圧力をかけて、恒貞親王を皇太子から引きずりおろさせたのです。

 かくして、新しい皇太子に道康親王が確定しました。





 その伯父である良房にとって、都合のよい人事になったことは明らかですね。

 850年、道康親王は文徳天皇として即位します。





 別な言い方をすれば、藤原良房が即位させたのです。





 文徳天皇は人を見る目と政治に対する熱意は持っていましたが、病気がちだったのでしょうか、多くの重要な政務にはなかなか関与できなかったようです。





 彼は第一皇子の惟喬親王(これたかしんのう) を愛し、期待して皇太子にと考えていました。

 しかし同年、第四皇子が生まれました。





 惟仁親王(これひとしんのう) といいます。

 惟仁の母親は良房の娘、藤原明子(あきらけいこ) です。





 何と生後わずか8カ月で皇太子に立てられたのでした。





 もうおわかりでしょう。





 良房の圧力ですね。





 良房のおかげで即位できた文徳天皇は逆らえません。

 そして、惟仁が将来天皇になれば、良房は外祖父になります。





 この時代、生まれた赤ちゃんは母親の実家で育てられたので、外祖父は大きな影響をおよぼすことになります。




 文徳天皇の死後、惟仁親王は清和天皇として即位し、良房は摂政になりました。


 まさに良房の思うつぼですね。





 文徳天皇は良房に遠慮して頭が上がらず、相当な心労が重なっていたと考えられます。

 内裏正殿を居住の間として生活を送ることはありませんでした。





 内裏の外れにある東宮や、離宮だったところを居住の間としていました。





 これはいったい何を意味するのでしょうか。





 良房から見れば、すでに文徳天皇は邪魔ものでしかありません。

 早く幼い皇太子・惟仁を天皇にして、自分は外祖父として摂政になろうとしていました。





 858年、文徳天皇が32歳で急死しました。

 残念ながら死因ははっきりしていません。





 通説では脳卒中ということになっていますが、一説には暗殺説もあります。

 文徳天皇は健康体そのものであったというのです。





 良房ならやりかねない状況にありますね。





 いずれにせよ、亡くなった文徳天皇は権力争いと心労に疲れ果て、悶々としていたことは間違いないでしょう。




 天皇という重い肩書、権力を奪われる不安と焦り、そしてその背景にある差別心。





 一般民衆は蚊帳の外ですね。





 この事実を民衆は、どう見ていたのでしょうか。
2 藤原薬子 ( ? ~ 810)







~手段を選ばず権力に寄り添い自殺に追い込まれた母親~







 藤原薬子(ふじわらくすこ) とは、娘の若い夫を色で奪った困ったお母さん、とでも言えばわかりやすいでしょうか。





 この背景には藤原式家、藤原北家という藤原氏どうしの権力争いがあります。


 まだ桓武天皇が健在の、平安時代初期のできごとです。





 この若い夫というのは桓武天皇の皇太子であり、後に平城天皇(へいぜいてんのう) として即位する人物です。




 よほど薬子は気に入られたのでしょう。

 一時権力を振るいますが、最期は自殺という悲劇で終わります。






 なぜでしょうか。






 薬子の生年はわかっていません。

 桓武天皇に信頼されて、長岡京の造営中に暗殺された藤原種継の娘です。





 藤原不比等の子どもたちである藤原四兄弟がおこした四家の一つ、藤原式家の出身になります。

 797年、宮中に入るきっかけができます。





 娘が皇太子の安殿親王(あてしんのう) に嫁ぐことになったからです。

 このとき薬子は母親であるので、若い娘の介添役として朝廷に入ることになったのです。





 ところが意外なことが起こりました。





 安殿親王は妃の母親である薬子のほうに夢中になり、こともあろうに男女の仲になってしまったのです。




 これを知った桓武天皇は激怒。





 薬子を宮殿から追放しました。

 悲惨なのは娘のほうでしょう。





 大変な屈辱であったことは容易に想像できますね。

 心労がたたったのでしょうか、その後若くして亡くなってしまいました。





 806年、桓武天皇が亡くなると、安殿親王は平城天皇として即位しました。

 するとどうでしょう。





 平城天皇は追放されていた薬子を呼び戻したのです。

 この間8年の隔たりがあり、平城は33歳、薬子は40歳を越えていました。





 驚くべき愛人の威力です。

 事実上の権力を握った薬子は、藤原式家繁栄のために邪魔者を次々に始末しはじめました。





 まず、平城の弟の伊予親王を幽閉して自殺に追い込みました。

 次に同じく弟の神野(かみの) も追放しようとしましたが、これはうまくいきませんでした。





 藤原北家がついていたからです。





 809年、先帝の怨霊を噂された平城天皇は急に弱気になり、弟の神野に譲位してしまったのです。




 神野は即位して嵯峨天皇になりました。

 平城は上皇となったのです。





 この譲位劇で、何も相談を受けなかった薬子は黙っていません。

 反撃に出ようと平城上皇をそそのかしたのでした。





 「奈良の旧都に還り、帝としてのお力をお奪いくださいませ」

 権力が惜しくなったのですね。





 平城は奈良の平城京への遷都を高らかに宣言してしまいました。

 これでは、今度は嵯峨天皇が黙っているはずがありません。





 薬子から官職を剥奪して宮廷から追放し、その兄の藤原仲成(なかなり) も佐渡への配流を決めました。




 これでも薬子は、まだあきらめません。





 平城上皇をたきつけて兵をあげさせたのです。

 かくして戦闘になってしまいました。





 しかし、上皇側には十分な兵が集まらず、たちまち敗北したのです。

 誰が見ても、たくさんの味方が集まるとは思えない状況ですね。





 自分で墓穴を掘ったようなものです。

 平城上皇は敗戦により、あっさりと出家しました。





 薬子はそれでもプライドが許さなかったのでしょうか。

 近くの民家に入って、服毒自殺でその生涯を終えました。





 この事件は歴史上、「薬子の変」 と呼ばれています。


 これほど愛された女性です。





 もっと明るく楽しく生きのびる方法がいくつもあったのではないでしょうか。





 権力にいつまでもしがみつき、その背景にある差別心から最後まで解放されなかったことが、悲しい末路を招いてしまいました。






 そもそも最初から娘の夫に手を出したことが、自殺につながってしまったのではないでしょうか。
1 桓武天皇 (737~ 806)






~怨霊に生涯悩み続けた平安時代の初代天皇~






 794年、平安京を作ったことで有名な天皇ですね。

 京都の町は以後1,000年以上にわたって、江戸時代の終わりまで都として栄えました。





 現在でも国際的な観光都市として、世界中に知られています。





 桓武天皇は貧しい庶民の負担を考えて兵役を一部免除したり、遷都した造営中の都づくりも途中でストップさせました。




 一般民衆にとってとてもありがたい政策を実行していますが、怨霊におびえ続け、精神病になって亡くなりました。





 なぜなのでしょうか。





 桓武天皇は順当に天皇になったわけではありません。

 父親の光仁天皇は、皇太子として他戸王(おさべおう) を指名していました。





 母親が皇后だったからですね。

 桓武天皇の母親は身分が低かったのです。





 ところが、この親子は775年に殺害されました。





 光仁天皇を呪い殺そうとしたというのが理由ですが、背後には藤原氏の陰謀があり、無実だったと見られています。





 つまり皇太子が殺されたので、桓武天皇に皇位が回ってきたのでした。

 781年、桓武天皇は平城京で即位します。





 後ろめたさがあったのでしょうか、彼は即位前からすでに、前皇太子と前皇后の怨霊を恐れていました。




 公地は荒れ果て、口分田を人々に分け与えることができませんでした。





 皇族の中でも、二つの派閥に分かれ、桓武天皇の皇位継承を否定的に主張する権力争いもありました。




 あげくの果てに、桓武天皇の皇太子はすでに弟の早良親王(さわらしんのう) であると父親の光仁天皇が決めていました。





 子どもではなく弟です。

 奈良の寺院の旧勢力もやかましく、平城京はとても居心地が悪かったのです。





 784年、ついに遷都をします。

 場所は京都の南西にある長岡京というところです。





 信頼していた藤原種継(たねつぐ) に都づくりを任せました。

 ところが翌年、種継が暗殺されてしまったのです。





 この暗殺に早良親王がかかわっていたという噂が流れました。





 親王は無実を主張しましたが、桓武天皇によって淡路島に流され、その途中で死亡したのでした。




 しかし、長岡京はなかなか完成しません。





 早良親王の死後、代わって皇太子になった息子の安殿親王(あてしんのう) が病気になったり、母と二人の妃が次々に亡くなりました。





 洪水や伝染病もはやったのです。

 「早良親王の怨霊のせいではないか」





 ますます悩みは深まるばかりです。

 794年、和気清麻呂が2回目の遷都を勧めます。





 「うむ、そうすれば怨霊から逃げることができるかも知れぬな」

 こうして選ばれた土地が京都なのです。





 もう、おわかりでしょう。





 平安京遷都の本音は、何と桓武天皇が怨霊から逃れるためだったのです。





 それでも洪水や干ばつの被害があると、怨霊のしわざとしてそれらを鎮魂する儀式を行いました。




 有名な祇園祭をはじめとする京都の多くの祭はこの怨霊鎮魂を起源としています。

 「しかし、民は今でも苦しんでいるではないか」





 桓武天皇の悩みはなくなりません。

 早良親王や他戸王の怨霊に、おびえる不安がなくなったわけではありません。





 幻聴や被害妄想が相次ぎ、現在でいう統合失調症の症状が出てきました。





 桓武天皇は亡くなった弟の早良親王に崇道天皇(すどうてんのう) の称号を送り、その遺骨を淡路島から大和に改葬して正式な天皇陵としました。





 さらに淡路島には早良親王のための大寺院を建立しているのです。


 ここまでやらなければ納得できなかったのでしょうか。





 確かに権力は得たけれども、その生涯は常に何かにおびえ続けた悩み多きものでした。





 彼の生き方、考え方一つで、もっと心労から解放された人生を歩むこともできたのではないか、と考えるのは僕だけでしょうか。