8 スターリン (1879年 ~ 1953年)





~権力と猜疑心の狭間で揺れたソ連の独裁者~





 その数1,000万人超。

 これほどたくさんの人間を殺した人物が他にいたでしょうか。




 しかも、その犠牲者の多くがソ連国内の人々だというから、さらに驚きです。




 世界初の社会主義国「ソ連」 を成立させたレーニンの後を継いで、急速な工業化と農業集団化を推し進め、ソ連の国力を増大させた人がスターリンです。




 しかし、彼は強大な権力を行使しながらも、その裏では猜疑心(さいぎしん) のかたまりのような人物だったとも言われています。




 なぜでしょうか。




 1879年、スターリンは黒海に近いグルジアで、貧しい靴職人の子として生まれました。

 父親は大酒飲みの怠け者。

 


 酔ってたびたび息子に暴力を振るいました。


 おかげで、彼は少年時代から粗暴でうたぐり深い人間になっていました。




 ロシア革命のときは、逮捕、流刑、脱出を繰り返しながらも革命活動に身を投じ、1912年以降、ボリシェビキの要職に就くことができたのです。




 しかし、レーニンは後継者としてのスターリンの資質を疑って悩んだといいます。

 権力の座に就くためには、手段を選びませんでした。




 まず、最大のライバルはレーニンの側近だったトロツキーです。




 手始めにトロツキーの息子を殺害し、次にダイナマイトと焼夷弾、機関銃で武装した男たちにトロツキーの別荘を襲わせました。




 かろうじてメキシコへ逃れたら、今度はメルカデルという名の刺客を送って殺害させています。

 ピッケルで頭を攻撃して抹殺しました。




 さらにキーロフという弁舌家も部下に命じて暗殺させ、その暗殺実行犯と目撃者、関係者もすべてこの世から消し去ってしまったのです。




 ものすごい執念ですね。




 有名な「カチンの森の大虐殺」 では14,000人のポーランド兵を銃殺して穴埋めにし、「白海運河」 の建設では25万人の労働者を犬死にさせています。




 集団農業においても、一言でも不満を漏らそうものなら大変です。

 即、シベリアなどの強制収容所に送られ虐殺されました。




 1934年に始まった反対派への「粛清」 は凄惨を極め、共産党中央委員の約70%の人々が銃殺刑で命を落としています。




 一般庶民の餓死者も600万人にのぼるといわれています。

 しかし、この強烈な独裁者も、自分が暗殺されるのを恐れて常にビクビクしていました。




 パーティーの食事は、必ず毒味役をつけ、空気に毒ガスが混ぜられていないかと空気の分析までさせました。




 極めつけは、彼の寝室です。




 鋼鉄のような頑丈な構造の寝室をいくつも作り、毎晩自分がどの部屋で寝ているかわからないようにしたのです。




 すべての部屋の窓に厚いカーテンをかけ、外からは決して光が見えないように工夫しました。

 恐ろしいほど徹底していますね。




 部屋の鍵は自分だけが持ち、何重にもかけました。

 妻子や付き人でさえスターリンの寝ている場所がわかりませんでした。




 あえていえば、緊急の連絡に備えて全室に電話を取り付けたことと、特別なセンサーにより、警備員にだけその居場所を知らせることができました。




 これでは一時も気が休まることがなかったでしょう。

 彼が最も恐れていたことは、自分自身が動けなくなったときですね。




 1953年、その恐れは現実になりました。




 あっけない最期ですね。




 「すべて終わりだ。

  誰も信用できない。




  この自分でさえも」




 スターリンのつぶやきです。




 彼の妻は夫が行った「大粛清」 を苦に自殺しています。




 溺愛していた娘は、父の死後1957年になって、姓をスターリンから母の旧姓に変えています。




 この妻子の行動はいったい何を意味しているのでしょうか。




 これでは何のために命がけで権力を握ったのかわかりませんね。




 スターリンの心労にまみれた壮絶な一生から、僕たちは大切なことを学べるのではないでしょうか。
7 ルーズベルト (1882年 ~ 1945年)





~仮面夫婦生活で神経をすり減らしたアメリカの大統領~





 「フランクリン・ルーズベルトは自分の妻に殺された」

 と言えば、言いすぎでしょうか。




 もっとも、その原因は「自らがつくりだした」 ともいえると思います。




 世界恐慌を乗り越え、アメリカ大統領としては異例の4選を果たすなど、多くの国民から絶大なる支持を受けた優れた大統領です。




 ところが戦勝国でありながら、彼が死んだ1945年という年は、敗戦国のムッソリーニやヒトラーと同じ年なのです。




 いったい、ルーズベルトに何が起こったのでしょうか。




 ニューヨークの名家に生まれた彼は、28歳の若さで早くも上院議員に当選しました。




 政治家として順調に頭角を現し、途中で小児麻痺で苦しんだこともありましやが、1928年にはニューヨーク知事、32年には大統領に当選しました。




 「炉辺談話」 と名付けられたラジオ放送でウィットあふれる政策説明をして、アメリカ国民の政治への信頼を確立していきました。




 中学校や高校の教科書にも載っている「ニューディール政策」 は特に有名ですね。




 大胆な公共事業を起こすなどして、世界恐慌から立ち直ることに成功したのです。




 多くの失業者が雇用され、銀行の信用を回復するための「緊急銀行救済法」 を制定したり、評判の悪かった「禁酒法」 を廃止したりもしました。




 これらの彼の政策は、たくさんの国民から支持され、現在でも世界史上のすぐれたリーダーの一人として語り継がれています。




 しかし、このルーズベルトにも大きな落とし穴があったのです。




 それは女性問題です。




 彼は、ルーシーという名の女性秘書と不倫をしてしまいました。

 この事実を知った妻エリノアが黙っているはずはありませんね。




 「冗談じゃないわ」

 と思うのは当然のことでしょう。




 すったもんだの家庭内戦争は必至です。

 一時は離婚も考えました。




 間に入ったのは姑で、ルーズベルトの政治生命を危ぶんだので、「家庭内別居」 という「休戦協定」 で妥協させられたのでした。




 それからというもの、妻エリノアは夫の身の回りの世話を一切しなくなりました。




 夫婦生活は完全に破たんしてしまいました。

 15年もの長きにわたる「仮面夫婦」 が延々と続いたのです。




 いくら夫が国民に人気のある大統領でも、妻としてはプライドをズタズタに傷つけられ、このままではおさまらないと思ったのでしょう。




 妻は「復讐」 を開始したのでした。

 ルーズベルトの仕事は誰が考えても激務です。




 仕事から帰れば、たとえ束の間でも家庭でゆっくりとくつろぎたいところでしょう。

 しかし、妻エリノアはわざと議論をしかけていったのです。




 これでは休む暇もなくなり、夫ルーズベルトはさらにヘトヘトに疲れてしまいました。

 これを繰り返すことが、妻の復讐だったのです。




 自分が播いた種とはいえ、夫の心労は相当なものだったでしょう。

 それでも、大統領という社会的地位、権力が大切だったのでしょうか。




 極めつけは、彼の死期が近づいたときです。

 唇に皮膚や粘膜が青紫色になるチアノーゼが出るほどの重体になったときでした。




 妻は書類を夫の枕元に突き付けたのです。

 ここに及んでも議論、説教を行い、徹底的に追い詰めようとしました。




 これでは病気が悪化する一方ですね。




 結局、亡くなるまでの2年間、ルーズベルトに寄り添い、みとったのは妻ではなく、愛人のルーシーでした。




 彼らの娘が二人を会わせたのです。

 この娘の一言がまた強烈です。




 怒りに震える母エリノアに対して、こう言い放ちました。




 「お父さんに安らぎをあげたかっただけよ」




 どんなに立派な仕事をして有名になっても、自分の足元に火がついてしまったら元も子もないという典型的な例です。




 家庭の大切さとは何か、改めて考えさせられるできごとですね。
6 ヒトラー (1889年 ~ 1945年)





~数々の心労から自殺に追い込まれたドイツの独裁者~





 「ああ、やっぱり・・・」

 ある新聞記事を見たときの僕の率直な感想です。




 そこには、ヒトラーの生前の行動を知る、95歳のある女性の生々しい証言が記載されていました。



 世界を震撼させた、独裁者ヒトラー。



 しかし、その強大な権力の裏には、数々の強烈な心労が見え隠れします。




 ナチスの強力な軍事力を背景に、一見、とてつもなく強そうに見えますが、心の中では暗殺者におびえ、常にビクビクしていたことが証明される記事内容でした。




 なぜでしょうか。




 1889年、ヒトラーはドイツ国境に近い、当時のオーストリア・ハンガリー帝国のブラウナウ地方で生まれました。




 彼は、少年時代から波乱に富んでいます。




 学校は留年や中退を繰り返し、画家をめざして受験したウィーン美術アカデミーにも連続不合格。



 住所不定の浮浪者として、警察に補導されたこともありました。




 しかたなく、水彩の絵葉書売りなどをしてようやく生計を立てていました。

 オーストリア軍への兵役を嫌って、国外に逃亡したりもしたのです。




 ヒトラーが世に出るきっかけになったのは、1920年のナチス入党です。

 途端にめきめき頭角を現して、1934年には総統になり、独裁権を手にしました。




 演説の天才であったとともに、その実行力も抜群でした。




 アウトバーンとよばれる高速道路は3,000キロメートルにもおよび、世界最大の失業者救済事業とも言われています。




 40万人の雇用を確保し、有事の際には飛行機の発着も可能でした。

 しかし、その一方で強烈な民族差別政策も断行したのです。




 第二次世界大戦の中で、ヒトラーはユダヤ民族の人々を容赦なく毒ガスで殺しました。

 アウシュビッツなどの強制収容所に連行し、その犠牲者は600万人とも言われています。




 ここで気をつけなければならないことは、ユダヤ人への民族差別は、ヒトラーとナチスだけがやっていたことではないということです。




 ドイツだけでなく、ヨーロッパの多くにこの風潮がありました。

 もっと言ってしまえば、ヒトラーの民族差別は多くのヨーロッパが生んだものなのです。




 さて、冒頭の新聞記事です。

 ある新聞とは、2013年5月14日発行の毎日新聞でした。




 ある女性とは、ベルリン在住のマルゴット・ウェルクさんという方です。

 写真つきのこの記事によると、彼女はヒトラーの十数人の毒味役の一人を務めたというのです。




 ヒトラーは菜食主義者で、アスパラガスやニンジンの料理が多く、肉はなかったそうです。




 サラダの葉一枚すら警戒し、毒が効く時間も考慮し、いつも毒味から45分以上たってヒトラーは料理に手をつけていました。




 これでは食べた気がしませんね。

 毎日の食事一つも心労の種だったのです。




 ウェルクさん自身も、毒味をするたびに自分が毒で死ぬ恐怖におびえていました。




 彼女が半世紀以上にわたって、この事実に対して沈黙を通してきたのは、「ナチスに協力した」 という非難を恐れたからです。




 さらに、ドイツ降伏後にソ連兵から暴行を受けたこともあり、自らの体験を語ることはかたくなに避けてきたのです。




 21世紀になって偶然ですが、ベルリンの新聞記者から、長寿を祝う趣旨の取材を受けたことを機に過去を語る決心をしました。




 ヒトラーの心労はまだあります。




 姪のゲリ・ラバウルとの不適切な男女関係と彼女の自殺、数年の獄中生活、そして同盟者ムッソリーニの銃殺と、大衆の前での遺体の吊るしあげです。




 ヒトラーは独裁者ムッソリーニの悲惨な最期を知っていたからこそ、自ら先に命を絶ち、自分の自殺後は「ガソリンで燃やせ」 と部下に命じていたのです。




 彼の生き方は、権力を握っても自由にはなれないこと、多くの心労との闘いが待っているということを学べるのではないでしょうか。
5 ムッソリーニ (1883年 ~ 1945年)






~臆病で暗殺者におびえ続けたイタリアの独裁者~






「血のみが歴史を前進させる」

 恐ろしい言葉ですね。




 イタリアの独裁者、ムッソリーニの言葉として、世界に知られています。




 第一次世界大戦を機に愛国主義に傾倒し、社会主義とナショナリズムを混ぜ合わせた独自の思想「ファシズム」 を提唱した人物です。




 ファシスト党を率い、1922年の「ローマ進軍」 で政権を奪取して、強力な独裁を行いました。



 同時に、それまで失業者あふれる農業国だったイタリアは、めざましい工業国に発展したのです。



 しかし、一見こんなにも強そうに見える彼は、意外にも「小心者」 だったことをご存知でしょうか。



 1883年、ムッソリーニはイタリア北部、フィレンツェの北東にあるフォルリ近郊の小村に生まれました。




 学校時代は学業成績優秀でしたが、学費の大小によって生徒の待遇が異なることに、大きな不満を感じていました。




 教師に石を投げつけ、喧嘩相手をナイフで刺し、ミサを妨害するなどの暴力事件を起こしたため、5年生のときに退学になってしまったのです。




 このキレやすい性格の裏には、小心者という、教科書には触れられていない事実があるのです。

 国のトップに躍り出て独裁者になってからは、開いた雨傘を極端に嫌いました。




 それは、暗殺者におびえていたからです。




 どういうことかと言うと、傘の陰から暗殺者に狙われはしないかと、常にビクビクしていたのです。



 これでは、雨の日などの外出が困難になってしまいますね。




 命の危険があると感じた時には、治療の守護神・聖アントニウスの小像をポケットにしのばせて外出していました。




 国の最強の権力を握りながら、これではかえって不自由ですね。

 ムッソリーニはかなりの教養人で、語学にも堪能、スポーツ万能で多くの女性にもてました。




 また、彼自身も好色で、数々の女性に手を出しています。

 ただし、香水が大嫌いで、アレルギー症だったのです。




 香水の香りや、エーテルの匂いをかぐと、失神してしまいました。

 だから、女性を選ぶときの第一条件は、何と「香水をつけていないこと 」でした。




 多くの男性が香水の魅力的な香りに引き寄せられていく中で、これも珍しいことですね。

 戦場でも倒した相手の死体を見ると、嘔吐してしまうほどでした。




 何か気の毒なほど、匂いに敏感だったのですね。

 とても神経質で、強心臓とはいえなかったことがよくわかります。




 1936年、イタリアはエチオピアを侵略し、39年にはアルバニアを併合しました。




 背景に世界恐慌の苦しみがあることは明白ですが、それにしても現地の国民の立場に立てば、人権侵害以外の何物でもないでしょう。




 ドイツのヒトラーとも協力し、ベルリン=ローマ枢軸が締結されています。




 1940年には、日独伊三国軍事同盟が結ばれ、第二次世界大戦へ向けてまっしぐらに進んだこと、そして敗戦につながったことは世界中でよく知られていますね。




 1943年、米英軍がイタリアのシチリア島を占領すると、国内でクーデターが起こり、ムッソリーニは国王と側近たちに軟禁されました。




 ヒトラーにより救出され、一時的にイタリア北部にイタリア社会共和国を建国したのです。




 しかし1945年、家族を亡命させていたスペインへ出国を試みる途中に、ガルバルディ自由旅団に拘束されてしまいました。




 最後は共産党により銃殺され、その死体はミラノで吊るされ辱められたのです。




 哀れな末路ですね。




 権力を目指し、力で権力を獲得して国中を動かしましたが、心は解放されませんでした。

 彼が最も恐れていた死に方になってしまったのではないでしょうか。




 「剣によって立つ者は、剣によって滅びる」




 このことを具体的に学べる、典型的なできごとだと僕は考えています。
 4 シャルロット皇后 (1840年 ~ 1927年)





~プライドと名誉のために発狂したメキシコの皇后~





 「私は毎日幸福感に酔っています。

 夫は才能豊か、優雅で思いやりがあります。




 私たちの宮殿はおとぎの城より美しく、神は私に望みうるすべてのものを与えてくださいました」



 これは、シャルロットが父に宛てた手紙の一節です。




 しかし、こんなにも幸せそうな夫婦でしたが、最後は悲劇で幕を閉じます。




 皇帝である夫は銃殺され、皇后であるシャルロットは、夫が殺されたことを知らないまま発狂してしまいました。




 いったいなぜなのでしょうか。




 1840年、シャルロットはベルギー王レオポルト1世の王女として生まれました。

 恵まれた環境の中で育ち、16歳で結婚します。




 お相手はマクシミリアンという明朗、活発な男性でした。

 彼はオーストリア皇帝、フランツ・ヨーゼフ1世の弟にあたる人物です。




 兄のフランツ・ヨーゼフ1世は、マクシミリアンを北イタリア総督に任命しました。

 このころが人生の華だったのでしょう。




 冒頭のシャルロットの手紙はこの時に書かれたものです。

 しかし、幸せは長くは続きませんでした。




 1859年、オーストリアはフランスとサルディニア王国の連合軍に敗れ、北イタリアの領地を失ってしまったのです。




 ここで悪魔のささやきをかけた人物がいます。


 フランスの皇帝ナポレオン3世です。




 彼はマクシミリアンに次のような誘いをかけてきたのです。

 「メキシコの皇帝にならないか」




 これは謀略ですね。




 ナポレオン3世は、メキシコを支配下に置くための傀儡(かいらい) 政権を樹立しようとしていたのです。




 つまり、操り人形ですね。

 夫が「皇帝」 になれば、妻は自動的に「皇后」 になれるわけです。




 シャルロットは、フランツ・ヨーゼフ1世の皇后エリザベートが大嫌いでした。

 「エリザベートはオーストリア皇后といっても、たかがバイエルンの公女にすぎないじゃない。




 祖父も父も王であった私とは身分が違うわ。

 だいたい何でエリザベートが皇后で、私が大公妃なのよ」




 この言葉には、シャルロットの差別意識が凝縮されています。




 もうおわかりですね。




 シャルロットは、中身よりも「皇后」 という肩書が最優先なのです。

 1864年、メキシコ皇帝マクシミリアンと皇后シャルロットの誕生です。




 これは、メキシコ国民の立場に立てば大迷惑だったことでしょう。




 というのも、メキシコでは、すでに1855年に革命が起こり、貧民大衆に支持された自由主義者、ファレスが大統領になっていたのでした。




 債権問題を口実に、ナポレオン3世は3万6000の大軍を送り込み、革命政権を強引に倒していたのでした。



 マクシミリアンとシャルロットが、歓迎されるはずがありません。




 当然国民から激しい抵抗が起こり、隣国のアメリカもメキシコを援助しました。




 劣勢になったフランスはこの新しい皇帝と皇后を見捨て、あっさりと兵を引いてしまったのです。




 孤立無援の絶望的状況ですね。

 ここでマクシミリアンは、退位を決意したのでした。




 しかし、ものすごい剣幕でこれにストップをかけたのがシャルロットです。

 彼女はメキシコからフランスにわたり、強引にナポレオン3世の説得にかかりました。




 泣きわめき、長時間ねばり、興奮のあまり何度も失神しました。

 うまくいかないと、今度はローマ教皇ピオ9世に援軍を求めましたが、これも失敗です。




 彼女はついに正気を失い、窓に鉄枠の入った城の一室に軟禁されたのです。

 1867年、マクシミリアンはメキシコで銃殺されました。




 35歳の短い生涯でした。




 シャルロットはこの事実を知らず、そのまま狂人としての余生を送ることになったのです。




 差別意識から解放されなかったことに起因するこのような悲劇は、二度と繰り返したくありませんね。



 
シャルロットがメキシコ国民の意識を理解し、国民の立場に立って寄り添うことができたなら、どのような展開になったでしょうか。






少なくとも発狂は避けることができたのではないでしょうか。