10 セシル・ローズ (1853年 ~ 1902年)






~侵略と心労で戦争中に若死にしたイギリスの帝国主義者~






 「神は世界地図が、より多くのイギリス領に塗られることを望んでおられる。

 できることなら私は、夜空に浮かぶ星さえも併合したい」





 「ちょっと待ってください」

 と言いたくなるセシル・ローズの有名な言葉です。





 彼の帝国主義者、人種差別者としての生き方が、この一言に凝縮されていますね。

 植民地争いの戦争まで仕掛けています。





 広く世界中から世論の非難を浴びることになったのは、言うまでもありません。





 世界地図がイギリス領に塗られることを望んでいるのは、神ではなくセシル・ローズ本人であることは明白です。





 全世界のダイヤモンド産額の9割を独占し、世界最大の「産金王」 にのし上がった彼は、意外にも40代で独身のまま、莫大な財産を残して若死にしています。





 いったいなぜなのでしょうか。





 1853年、ローズはイギリスの牧師出身の地主の子として生まれました。

 生まれつき病弱で、彼の父も心配していました。





 そこで、気候の良い南アフリカにいるローズの兄のもとへ送ることにしたのです。

 アフリカとはいえ、そこは僕たちがイメージするような過酷な気候とは違います。





 熱帯でも砂漠でもなく、温帯の過ごしやすい気候で「太陽の国」 ともよばれることがありました。




 この兄のもとで、健康を取り戻すことができたのです。





 こんな逸話が伝えられています。

 ある日、アフリカの子どもたちがおはじき遊びをしていました。





 おはじきといっても、それはガラスの玉ではなく石ころです。

 その石ころをよく見たローズは驚きます。





 何と、石の中にダイヤモンドが混じっているではありませんか。

 彼は推測しました。





 「この近辺にダイヤモンド鉱山が眠っている」





 彼の推測は、後に見事に的中することになったのです。

 1880年、デ・ビアス鉱業会社の誕生です。





 あり余る莫大な財宝を手にしたローズの満面の笑顔が、目に見えるようですね。





 同時に彼は、アングロサクソンこそ最も優れた人種であり、アングロサクソンにより地球全体が支配されることが、人類の幸福につながると信じて疑いませんでした。





 アングロサクソンというのは、イギリスに最も多い白人のことです。

 世界支配を目指す秘密結社の設立を、公言したこともあるくらいです。





 やがてケープ植民地(現在の南アフリカ共和国) の首相になり、鉄道、電信、新聞業もその支配下に入れ、すべてが順調にいくかに見えました。





 しかし、オランダ系の白人であるボーア人との植民地争いが残っていたのです。





 2度にわたるこの戦争は「ボーア戦争」 と呼ばれましたが、現地の大半の住民である黒人たちの立場に立てば、どちらが勝っても迷惑な話でしょう。





 1回目は、ローズがボーア人に仕掛けています。





 会社の軍隊を使って、南アフリカ北東部のトランスヴァールを併合しようとしましたがうまくいかず、世論の非難に押されてイギリス政府もローズを援助できませんでした。





 1896年、彼は失脚し、首相と会社を辞めました。

 2回目は、世論の鎮静化を待ったイギリス政府が、1899年に仕掛けました。





 しかし、キンバリーで包囲され、救出されるまで4か月もかかったのです。





 言葉に尽くせない、耐えがたい心労だったことでしょう。





 この間に健康が悪化し、いったんイギリスにもどりましたが、執念で再び戦争に参加しました。

 結局、戦争の終結を見ることなく、南アフリカで49歳の若さで、戦争中に亡くなりました。





 差別意識から、最後まで解放されなかった男の末路です。





 それにしても、莫大な財産の使い道は他にもあったのではないでしょうか。




 現地の人々と共に生きることもできたのではないか、と考えるのは僕だけでしょうか。
9 李鴻章(りこうしょう) (1823年 ~ 1901年)






~外交の心労で寿命を縮めた清の大臣~






 西洋の良いところを取り入れて、中国の近代化を推し進めた清朝末期の実力者です。




 「洋務運動」 と呼ばれる、鉱山開発や鉄道の敷設、近代海軍、官営軍需工場の設立などに尽力しました。




 半植民地化が進む中国を改革して立ち直り、安定した一時期をもたらしたので、この時期は後に「同治の中興」 と呼ばれました。





 作家の司馬遼太郎さんは「当時の世界で有数の政治家」 とまで評価しています。




 また、浅田次郎さんは小説の中で「清国の末期を支えるために孤軍奮闘した偉人」 と描いています。




 しかし、李鴻章は亡くなる一時間前まで仕事をしていたのです。




 「仕事をしながら死んだ」 といっても過言でない状態でした。




 いったい、彼の身に何があったのでしょうか。





 1823年、李鴻章は南京の西方にある安徽省(あんきしょう) の合肥(ホーフェイ) という町に生まれました。




 25歳で難関試験と言われる科挙(かきょ) に上位で合格したエリートです。





 彼が配属された部署は、皇帝の詔勅を作成する特に優秀な学者が勤務する官庁でした。

 以後、25年にわたって清朝最高の実力者としての地位を保ち続けたのです。




 諸外国も、皇帝よりも李鴻章のほうこそ清帝国の真の支配者、と見なしていたくらいです。

 しかし不運にも、彼の在任中は国難の連続でした。




 まず「太平天国」 です。




 1851年に始まったこの国内戦争で、太平天国軍の北京進出を食い止めたのは、曾国藩(そうこくはん) と李鴻章です。




 1864年には、彼の組織した淮軍(わいぐん) が太平天国を滅ぼしました。





 皇帝の立場から見れば大きな手柄になりますが、国民の多くはすでに清王朝を見放していたことも事実です。




 それが後に表面化したのが、孫文で有名な辛亥革命(しんがいかくめい) ですね。

 1884年には、フランスとの間に清仏戦争(しんふつせんそう) が起こります。





 清はこの戦争で敗れ、フランスと戦後の講和条約を結んだ時の清国代表は李鴻章でした。

 この交渉の結果、それまで清の領土であった越南(現在のベトナム) を失うことになりました。





 国の代表として交渉に参加した彼の心労は相当なものだったでしょう。

 さらに、10年後の1894年、日清戦争が起こります。





 日本にも敗れた清国の全権大使は、またしても李鴻章でした。

 日本の山口県下関で下関条約が結ばれました。





 「清国は朝鮮半島から兵を引き、台湾と遼東半島をゆずります」

 それに、3億円以上の多額の賠償金を支払うという屈辱的な内容になりました。





 日本全権の伊藤博文の嬉しそうな顔が目に見えるようですね。

 あげくの果てに、李鴻章は何者かに顔面を銃撃されました。





 命はとりとめましたが、心身とも踏んだり蹴ったりであったことは想像に難くありません。

 72歳の高齢で、それでも粘り強く交渉に臨みました。





 極めつけは、1900年に起こった「義和団事件」 です。

 日本軍を主力とする8か国連合軍にまたしても敗れ、「北京議定書」 を結ぶことになりました。





 ここでも彼は清国代表として交渉に当たっています。

 5億円の賠償金を支払い、北京などに外国軍がとどまることを許すという内容でした。





 もう、誇りもプライドもズタズタですね。





 このころから、李鴻章は心労から情緒不安定になり、精神錯乱したようにどなり散らすようになりました。




 特にロシアとの交渉は難航し、何と死の1時間前にも、ロシア公使が条約調印の催促に李鴻章のもとを訪れています。




 結局、後任に袁世凱(えんせいがい) を指名して亡くなりました。





 清のこの一連の戦争は、いったい誰のためのものだったのでしょうか。





 国民の声に耳を傾け、国民の立場に立って行動すれば、この強い心労から解放されていたかもしれませんね。
 8 メンデル (1822年 ~ 1884年)






~権力保持で好きな科学に専念しそこなったチェコの司祭~






 「メンデルの法則」 という遺伝の法則を発見した偉大な科学者です。




 中学校の理科や高校の生物で習ったことがあり、彼の名を聞いたことがあるという方も多いでしょう。



 僕も詳しいことを説明する力はありませんが、現代では彼は「近代遺伝学の創始者」 とも言われています。



 エンドウ豆の交配から大きな業績を残した、偉大な人物と評価されています。




 しかし、「メンデルの法則」 は彼の生存中には全く認められず、死後30年近くもたってからやっと認められたことをご存知でしょうか。




 法則の発表からは、何と35年もたっています。





 なぜなのでしょうか。





 1822年、メンデルはチェコのモラビア地方の小さな果樹園をもつ貧しい農家に生まれました。



 当時はオーストリア帝国の領土でした。





 苦学をしながら短期大学を卒業しましたが、家庭の事情でそれ以上の進学は断念しました。

 その後、チェコのブルノの修道院での修業により、25歳で司祭になりました。





 近くの中学校の代用教員も務めたことがありますが、正教員になるための検定試験には合格することができませんでした。




 彼が修道院の庭の一隅を借りて、エンドウの遺伝研究を始めたのはこのころからです。




 1865年、約6年にわたる研究は「植物の雑種に関する実験」 と題する論文にまとめらました。



 ブルノの自然研究会の席上で発表されたのです。




 翌年には研究会の紀要に印刷され、各地の大学や研究所に送られました。

 ところが、誰にも認められません。




 実験結果の処理に数学的方法を導入するといった、新しい研究方法が理解されなかったとも考えられます。




 しかし、僕は当時の関係する学者たちが理解しようとしなかったのではないかと考えています。

 メンデルの本職は修道院の司祭であり、学者ではありません。





 「素人に何がわかるか」 という上から目線で見下され、差別的な扱いを受けたのではないでしょうか。




 これを認めれば、学者たちの誇りとプライド、権威を傷つけることにもなりかねないからですね。




 こうして「メンデルの法則」 は長い間無視され続けたのです。

 彼の死より先に、世に出ることはありませんでした。





 それにしても当の本人はこの間、いったい何をしていたのでしょうか。

 実は、研究どころではなくなってしまったのです。





 1868年、メンデルはブルノの修道院長に就任し、さまざまな公務に引っ張り出され、研究は趣味程度にしかできなくなったのです。





 さらに1874年、オーストリア議会は、修道院からも徴税する法律を制定しました。

 裏を返せば、これ以前の修道院は税を納めていなかったということですね。





 メンデルはこれに強く憤り、反対闘争を展開したのです。

 それこそ、死ぬまでの10年間、この法律の撤回のために全精力を傾けたのです。





 彼の闘争姿勢はあまりにも激しかったので、周囲からも孤立したといいます。





 他の教会が次々と税の支払いに応じていく中で、メンデルは最後まで支払いを拒否し、ついに裁判になってしまいました。





 10年にわたる裁判の中で、次第に猜疑心の強い人間嫌いの性格になってしまいました。

 失意の日々を過ごしたこの心労は、相当なものだったのでしょう。





 「私は万有引力に敏感すぎるほど体重が重くなり、もう植物採集にも行けない」

 これは、彼が知人にあてた手紙の一節です。





 1884年、メンデルは修道院の一室で、人知れず息を引き取りました。





 悔しかったことでしょう。





 他に生きる方法はなかったのでしょうか。





 彼の意識がもう少し解放されていたならば、「メンデルの法則」 はもっと早く世に出ていたかも知れません。


 

 もっと早く科学の進歩に貢献できたのではないか、と考えるのは僕だけでしょうか。
7 フリードリヒ・ヴィーク (1785年 ~ 1873年)






~名誉と富で家族から見放されたドイツの音楽教師~






 大作曲家、シューマンの妻の父親です。

 ドイツのライプチヒで、一番の音楽教師と言われました。




 シューマンやその妻クララのピアノの先生であり、強い信念と強烈な個性をもった優れた教育者でした。




 ヴィークの練習曲集は今でも出版され、機械的な技術の習得だけでなく、情操と感受性を育てることを常に主張していました。




 同じ時代を生きた大作曲家、メンデルスゾーンが創立したライプチヒ音楽院に、ピアノの教授として就任を打診されたこともあったほどです。





 娘のクララも世界的なピアニストになることができたのは、父のおかげと感謝しています。





 しかし、ヴィークは音楽的にはすばらしい成果をあげましたが、家庭的には幸福になれたとは僕には思えないのです。





 なぜでしょうか。





 1785年、フリードリヒ・ヴィークはドイツのザクセンアンハルト州ヴィッテンベルク近郊で生まれました。




 若いころは神学を学んでいましたが、ピアノのために音楽に夢中になり熱中して、後にピアノ工場と楽譜出版社を創立したほどです。





 彼の妻マリアンネもピアニストであり、声楽家でもありました。

 音楽という共通の芸術で結ばれた、楽しい理想的な夫婦を想像してしまいそうですね。





 ところが、実際にはそうではなかったのです。

 1819年、娘のクララが生まれたときのヴィークの言葉です。





 「この子は一流のピアニストに育てあげるのだ。

 音楽の世界で有名になれば、たくさんの金が手に入るし、大金持ちの貴族とだって結婚できる」





 この言葉には、ヴィークの価値観が凝縮されていますね。

 1823年、クララが4歳になると、それはハードなピアノのレッスンが始まりました。





 母親であるマリアンネは、ことごとく娘の育て方について対立しました。

 「そんなにいやなら出ていくがいい」





 翌年、クララがまだ5歳のときです。

 ついにマリアンネは、娘を残したまま家を追い出されました。





 そして、二度と戻ることはありませんでした。





 夫の側から見れば、追い出したのでしょうが、妻の側から見れば、何を言っても無駄な夫を見放したのでしょう。




 1837年、18歳になったクララは、父ヴィークの弟子の一人で、恋愛関係にあったシューマンと結婚の約束をします。




 このことを知ったヴィークは、烈火のごとく猛反対しました。




 「私が自分の人生の10年を犠牲にして、クララを一流のピアニストに育てたのは、あんなシューマンのような貧乏音楽家にくれてやるためではない。




 ピストルで撃ち殺してやる」



 何か、勘違いをしていますね。




 これは明らかに、差別者の言葉です。

 さらに、ヴィークの人権感覚が欠如した発言が続きます。




 「シューマン、今後いっさい娘と会うことは許さん」




 「クララ、もうお前をわしの娘とは認めん。

 財産も一文だって分けてやらん」




 若い男女の誠心誠意の説得にも頑強に応じず、ついに裁判になってしまいました。

 でも、結果は火を見るより明らかです。




 1940年、2人はライプチヒの教会で結婚し、裁判に負けた父はドレスデンに移り住みました。



 結婚式の出席者は、追い出されたはずの実母のマリアンネと、二人の共通の友人であるベッカー夫妻でした。




 もちろん、父ヴィークの姿はありませんでした。

 このできごとは、差別はする方が不幸になる典型的な事例ではないでしょうか。




 愛する娘の結婚を祝いたいというのは、世の多くの父親たちの本音でしょう。




 結局、フリードリヒ・ヴィークは妻から見放され、娘からも見放され、そしてその夫からも見放されたのです。




 自分の子どもと裁判で争いたい、という親はいないと思います。




 親として、自分の子どものために本当に大切なことは何か。




 とても考えさせられる世界史上のできごとですね。
6 ゾフィー大公妃 (1805年 ~ 1872年)






~権威と息子たちとの狭間で揺れたオーストリア皇帝の母~
 





 ハプスブルク家は、ヨーロッパの名門中の名門として有名です。




 歴史上数多くの皇帝や国王、皇妃や王妃を次々に出し、何か国にもまたがる広大な領地をものにしていました。




 なぜこのような名家になれたのかご存知でしょうか。

 それは「政略結婚」 です。




 ハプスブルク家にとって、政略結婚は何代にもわたる得意技だったのです。




 しかし、華やかに見える宮廷生活の裏には、人間の自由を無視した人権侵害や、悲劇もたくさん起こっていたことも事実です。




 ゾフィーは、現在の南ドイツにあったバイエルン王国の貴族、ヴィステルバッハ家に生まれました。



 彼女もまた政略結婚により、オーストリア帝国の皇帝の弟にあたる大公のもとに嫁ぎました。




 由緒ある名門ハプスブルク家です。

 皇室のしきたりや礼儀作法などをしっかり身につけて、大公妃として君臨していたのです。




 ところが1848年、ゾフィーの長男が18歳でオーストリア帝国の皇帝に即位したのです。

 フランツ・ヨーゼフ1世の誕生ですね。




 このことは、同時にゾフィーが皇帝の母親になったということでもあります。

 つまり、ウィーンの宮廷における絶対的な権力者にのし上がったことを意味するのです。




 彼女は大いに喜び、張り切ったことでしょう。




 この後は、上から目線で周りの人々を見下し、自分の思い通りにしようしたと考えられる行為が、次々に表面化していきます。




 何といっても息子のフランツ・ヨーゼフ1世はまじめを絵にかいたような性格で、母親に逆らったことがなかったのです。




 まず、息子の結婚です。




 ゾフィーは、自分の実家ヴィステルバッハ家の長女ヘレーネをフランツ・ヨーゼフ1世の皇妃にしようとして、引きあわせました。




 今でいう「お見合い」 ですね。




 ところが、ゾフィーの思いもよらぬことが起こります。




 息子の皇帝はヘレーネに全く興味を示さず、何とその妹のシシィに熱々になってしまったのです。



 猛反対しましたが、フランツはこのとき初めて母親に逆らいます。




 「私の結婚は皇帝である私が決めます。

  大公妃殿下は口出し無用!」




 こうして、妹のシシィとの結婚を成立させました。

 皇妃エリザベートの誕生です。




 1854年、フランツ・ヨーゼフ1世は23歳、エリザベートは16歳でした。

 おさまらないのは、母親のゾフィーです。




 エリザベートはヨーロッパ1の美貌と噂される女性でしたが、自由奔放な性格で、ハプスブルク家の伝統的なしきたりにはなかなかなじめませんでした。




 ゾフィーの憎悪は、エリザベートに向けられたのです。




 言葉遣いや歩き方、お辞儀の仕方、箸の上げ下ろしまで日常生活の細部に干渉して、少しでも違反すれば厳しく叱責しました。




 生まれた赤ん坊まで取り上げて、勝手に自分と同じゾフィーと名付けました。

 これはやりすぎでしょう。




 当然のことながら、耐えきれなくなったエリザベートからもゾフィーは逆らわれます。

 極めつけは、次男のマクシミリアンです。




 フランスのナポレオン3世に誘われて、メキシコの皇帝になろうとしたのです。




 ゾフィーは、このマクシミリアンを幼い時から溺愛していて、彼のメキシコ行きにも猛反対しました。




 マクシミリアンは母親の反対を押し切って、メキシコへ旅立ったのです。




 しかし、やはり恐れていた悲劇は起こりました。




 皇帝になったマクシミリアンは、メキシコで銃殺され、その遺体がオーストリアへ返されてきたのです。




 その後、ゾフィーは人が変わったように陰鬱になり、わずか2年後に愛息の後を追うように亡くなりました。





 皇帝の母という地位を手に入れても、思うようにならないことばかりですね。





 高い地位と強い権力に恵まれても、何とももったいない人生だと感ずるのは、僕だけでしょうか。





 彼女が差別意識からもう少し解放されていたならば、もっと豊かな人生を送ることができたのではないでしょうか。