9 吉岡弥生 (1871 ~1959)




~女性差別を乗り越えて日本初の女子医大を創設した女医~




 「女性の地位向上の問題は、女性の問題というより、実は男性の問題です。

 男性が家庭の中でよく女性を理解することが、女性の本当の力を発揮させるのに不可欠です」




 この吉岡弥生の言葉は問題の所在を的確に述べていますね。

 女性が女性を差別する場合も確かにあります。




 しかし、長い間女性を差別してきた主体は男性であり、女性差別は多くの場合、男性の問題なのです。




 男尊女卑の風潮が強かった明治時代にあって、これをたくましく乗り越え、女性に閉ざされた医学を志す道を開いた人が吉岡弥生です。




 弥生は現在の静岡県掛川市で生まれました。

 生家の鷲山家は造り酒屋と醤油屋を営んでいました。



 
 ですから少女時代は鷲山弥生と名のっています。

 ここに医者であった弥生の父が婿養子に入っていたことが医学との接点の第一歩だったのでしょう。




 勉強だけでなく、家事もよくでき裁縫もやりました。

 染色を除けば蚕を飼うところからつむぎ、機織り、裁断も含めて全部一人で着物を作ることができました。




 家族の着物もたくさん作っています。


 17歳の時、医者になりたいとの願望を父に告げました。




 父は反対です。


 弥生はあきらめず、反抗する冷戦状態を2年間続けながら何度も説得し、ようやく願いをかなえました。




 1889年、上京して済生学舎に入学しました。

 ここで弥生は女性差別を受けます。





 当時女子学生は珍しく、男子学生の冷やかしや悪質ないたずらが絶えませんでした。


 医学教育の場合、実習では学生が順番に患者役となって模擬診察や模擬治療を受けることが必要です。





 女子学生は大勢の男子学生の前で身体をさらすことになるのです。




 もうおわかりでしょう。




 男子学生たちの口から発せられる言葉は、あえてここに書く必要はありませんね。




 弥生は 「女医学生懇談会」 を組織して反撃に出ます。

 講堂で演説もしました。




 差別に負けずに闘い、勉学にも励んだ結果、1892年、22歳の女医、鷲山弥生が誕生したのです。


 1895年、医師の吉岡荒太と結婚し、彼が院長を務める 「東京至誠医院」 の女医になりました。




 ところが1900年、かつて弥生が学んだ 「済生学舎」 は女子生徒の入学を許可しないことを決定したのです。




 理由は 「風紀が乱れる」 というものでした。




 またしても女性差別ですね。

 これでは医学の道を志す女性の道が閉ざされることになります。




 ならば、女子だけの医学教育の場を作るしかありません。




 この考えに即座に賛成した人物が、夫の吉岡荒太でした。

 差別意識から解放された人でなければできることではありませんね。




 こうして至誠医院の一室に、日本初の女医学校である 「東京女医学校」 が作られました。

 後に専門学校として認められ、さらに大学として発展していきます。




 これが現在の東京女子医科大学です。




 しかし、この間にもさらなる差別が立ちはだかっていました。

 専門学校の設置認可のとき、官学優先の文部省は、申請書をわざとずっと放置するという差別的な扱いをしています。




 このときも弥生は一切の財産を投げ出して血みどろの交渉をしています。


 さらに東京女医学校の第1回卒業式の来賓の中にからこんな言葉が出てきました。





 「女子に高等教育を受けさせるのはよくない」



 「結婚の時期が遅れる」



 「手術で平気で血を流すような殺伐な女が増えたら日本は滅ぶ」





 訪問者の皆さんはこれらの発言をどのように受け取られますか。




 僕は吉岡弥生こそ、人権史観から見た日本の歴史上、なくてはならない人物だと思いますがいかがでしょうか。
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