8 幸徳秋水(こうとくしゅうすい) (1871 ~1911)




~帝国主義に反対し身分や貧富の差をなくそうとした社会主義者~




 日露戦争で日本がロシアに勝ったことは歴史上よく知られていますね。



 特に203高地の戦いや、東郷平八郎元帥で有名な日本海海戦の勝利は、教科書をはじめとする多くの歴史書でも取り上げられています。



 しかし、この戦争で203高地だけでも日本人6万人が死亡し、戦争全体で22万人の戦傷者を出し、国家予算の7年分の戦費を費やしたことをご存知でしょうか。




 この日露戦争に終始一貫して反対し続け、帝国主義を批判した当時の一般国民の少数派の一人が幸徳秋水です。




 秋水は高知県四万十市に生まれ、本名を伝次郎といいました。

 生家は薬種業と造酒業をいとなむ旧家で、4人兄弟の末っ子でした。




 わずか1歳のときに父を亡くし、「父なし子」 と罵られて育ちました。




 早くも差別にあっていますね。




 幼児の秋水は虚弱で、胃腸障害のため少しも太らず成長が危ぶまれました。

 しかし頭は明敏で、母の懐で乳をまさぐりながら、母の胸に指で字を書いていました。




 頭脳明晰を絵に描いたような風景ですね。

 少年時代から自由民権運動に関心をもち、15歳の時に 「自由新聞」 の読者になっています。




 16歳で東京に出ますが、中江兆民ら570名とともに都内から追放されてしまいました。

 自由民権運動を弾圧する、明治政府の 「保安条例」 による 「危険人物」 の東京退去命令です。




 ここで 「危険」 というのは明治政府の権力を行使することにとっての危険です。




 権力者の目線ですね。




 国民の目線に視点を移せば、国民の自由な言論を弾圧し、ロシアに帝国主義の戦争をしかけ、朝鮮を植民地にしようとしていた当時の明治政府のほうがもっと危険だと思うのは僕だけでしょうか。




 1901年、秋水は 「20世紀の怪物 帝国主義」 を刊行して帝国主義を批判します。

 これは当時、国際的に見ても先進的なものでした。




 ロシアのレーニンよりも早いのです。



 「戦争で利益をえるのは、軍人や資本家だけである。

 多くの人民が不幸になる戦争には、絶対反対しなければならない」




 「軍隊の力で領土を拡張するのはまちがっている」




 この考えは海外からも評価され、フランスのある大学教授は、フランス語に翻訳して紹介しました。




 秋水が所属した日本初の社会主義政党である社会民主党は、8時間労働制や普通選挙制、さらに身分や貧富の差をなくし、人民が直接政治に参加できる民主的な社会の実現を主張しました。




 しかし、資本、土地の公有化をはじめとする社会主義の考え方は受け入れられず、明治政府によって直ちに解散させられてしまいました。



 1910年、日本史上有名な 大逆事件 (たいぎゃくじけん) がおこります。




 明治天皇暗殺計画を立てた首謀者は幸徳秋水だとして捕えられ、秋水を含めて12人が裁判の結果、絞首刑にされて殺されました。



 ところがこの裁判には、当初からいくつかの疑問がもたれていました。


 傍聴人どころか証人を一人も立てない密室裁判です。




 求刑からわずか6日後という異例の早さで処刑が実行されています。

 その3ヵ月後に韓国併合が行われ、朝鮮が日本の植民地になりました。




 そして事件から51年後の1961年、次のことが発覚しました。

 拷問による調書のねつ造、ほぼ全員が事件と無関係だったこと、明治政府が裁判所に圧力をかけていたことです。




 この背景にはいったい何があるのでしょうか。




 後世に生きる僕たちにとって、多くの学ぶべきことがあるできごとだと思いませんか。
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