7 夏目漱石 (1867 ~1916)




~権威にとらわれず自由に生きた明治の文豪~




 あまりにも有名な人ですね。



 「坊っちゃん」 「吾輩は猫である」 をはじめとする数々の名作は、明治時代から現在まで、全国のたくさんの人々から愛読されています。



 中学校や高校の国語や社会の教科書でもおなじみの人物です。



 また、千円札の肖像画にもなったことがあり、その顔も広く知られています。

 むしろ、夏目漱石の名前を聞いたことがないという人のほうが珍しいと思えるほどの有名人ですね。



 日本を代表する文豪として、不滅の光を放っている夏目漱石。

 才能に恵まれ、東京帝国大学 (現在の東京大学) を卒業し、ロンドンに留学。



 一見エリートコースまっしぐらのようにも見えますが、はたしてそうでしょうか。



 実は、彼は兄弟差別をはじめとする被差別の立場にあったのではないでしょうか。



 たぐいまれなる文才もさることながら、漱石はさまざまな差別を乗り越え、自分の自由意思を大切に生き抜いた人だと僕は考えています。



 まず、彼は望まれて生まれた子ではありません。




 金之助という名で生まれた漱石は、夏目家の5男3女の末っ子で、予定していた子どもではありませんでした。


 父はすでに52歳、母は40歳でした。だから、彼はすぐに、東京・四谷にある古道具屋に里子に出されてしまいました。




 あげくのはてに、赤ん坊の漱石は、夜は 「がらくた」 と一緒に小さなザルの中に入れられ、店の前に並べられていたのです。




 これはひどいですね。




 さすがに漱石はいったん実家に戻されますが、すぐにまた別の家へ養子に出されました。

 養子先は内藤新宿の名主をしていた塩原家です。




 だから漱石は少年時代は 「塩原金之助」 と名のっていました。

 ところが、塩原家の夫婦離婚により、またしても実家に戻されます。





 居場所がなかったのですね。





 結局、彼が夏目姓を名乗ることができたのは、成人後のことだったのです。

 まさに、身の置き場がない、波乱の少年時代を過ごしたのでした。





 しかし、彼には学問の才能がありました。

 不遇を解消して、ぐんぐん力を伸ばしていきました。





 東京師範学校や松山の中学校の教師、ロンドン留学も果たしました。





 1907年、東京大学教授に内定しましたが、漱石はこれを辞退して朝日新聞に入社しました。


 作家として名が知られてくると、1911年、当時の文部省は文学博士の学位を贈りましたが、彼はこれも辞退しています。





 この行動には、権威にとらわれない漱石の信念が見えますね。





 また、雑誌 「太陽」(博文館発行) が行った人気投票で、漱石の作品が一等になったとして金杯を贈られましたが、このとき彼は金杯返却のために同社を訪れました。





 なぜでしょうか。





 この背景には、国家権力や大衆の人気投票などが 「人間そのものの価値」 までも決めつけるような姿勢で、相手を格付けする態度は許さないという考え方があるのです。





 僕は、世の中にあるたくさんの表彰制度を、今一度吟味してみる必要があるのではないかと考えています。


 誰が、どのような目線から、どんな意味で表彰するのか。





 もし、人間そのものの差別につながるようなものがあったとしたら、それは権力者や支配者が、「支配のために差別を巧みに利用している」 ということになるかもしれませんね。





 夏目漱石は、自らの信念を貫き通し、自由に生きた人だったと思います。





 すぐれた文学作品とともに、彼自身の


 「権威にとらわれない生き方」





 この事実に注目するべきものがある、と考えるのは僕だけではないと思います。
スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://eichi862.blog.fc2.com/tb.php/97-4f0fc74a