5 石井十次 (1865 ~1914)




~孤児たちとともに生き生涯を捧げた宮崎の教育者~




 「かわいそうだから助けてあげる」

 このくらいの気持ちでは、あそこまでできないのではないでしょうか。




 石井十次 (いしいじゅうじ) は 「孤児の父」 「社会福祉の先駆者」 などとよばれる、明治の傑出した教育者です。


 日本で初めて 「孤児院」 を作り、生涯で3,000人もの孤児とともに生きました。




 この時代の孤児は浮浪者と見なされ、偏見や差別にさらされていました。


 そこに正面から向き合った十次の生き方には、僕はとても共感できます。




 1865年、宮崎県の高鍋というところで生まれました。

 当時は貧しい村で、同じ年頃の友だちの多くが、日々の食べ物にも困るような暮らしをしていました。




 16歳で結婚し、小学校の教師や警察官をしていました。

 病気で入院したときに、院長を通して医学とキリスト教に出会いました。




 退院後は、岡山県甲種医学校に進学し、医学の勉強に励んでいます。

 両親や郷里の人々も将来は立派な医師になると期待されていました。




 ところが、1887年、医学部4年生のときのことです。

 診療中に、夫を失い途方にくれる四国巡礼の貧しい母子に出会いました。




 長男の養育をすがるように懇願されたのです。




 十次の生き方が変わった瞬間ですね。




 その長男を預かり育てる決心をしました。




 その背景には、以前に同じように両親を失った他人の子供を育てた自分の母親の姿があります。




 また、新島襄 (にいじまじょう) の同志社大学設立趣意書、入院中に入信したキリスト教の人類愛の精神があったことも明白です。



 同年、十次は 「岡山孤児院」 を作って、51人の孤児を引き取りました。


 午前中は勉強、午後からはいろいろな仕事に励む教育方針で、「学ぶことと、働くこと」 が二本柱です。




 しかし、当時の世間の目は、孤児に対して偏見をもっていました。




 「浮浪者を集めて何かをたくらんでいるのではないか」

 こんなふうに捉えられ、政府や県、そして市民もまったく無関心でした。




 孤児たちも十次も、被差別の立場にあったといえますね。




 預かる孤児が増えてくると、医者になるための勉強かほとんどできなくなりました。

 両親をはじめ、郷里の人々の自分に対する期待を思うと、十次は悩み、苦しみ続けたのです。




 1889年、ついに6年間学んだ医学書をお寺の境内で燃やしてしまいました。


 「人間は二人の主に仕えることはできない」




 彼の生き方に決定的な影響を及ぼした聖書の言葉です。




 「医者を志す者は他にもいる。

 自分の使命は孤児とともに生きることだ」




 これが十次の結論です。




 1898年、孤児救済の応援をしてもらうために、音楽隊を連れて全国を回り始めます。

 入場券や聖書を買ってもらうことにより、資金を集めたのでした。




 さらにアメリカや台湾などでも、活動を展開していきました。

 この間、濃尾地震や日露戦争、東北地方の大凶作などから孤児の数はますます増え、1,200人もの大家族になっていました。




 1910年、「自分たちの生活に必要なものは、自分たちの手で作り出すこと」

 この理想を実現するために宮崎県の茶臼原 (ちゃうすばる) へ孤児院を移転しました。




 宿舎、学校、集会場などが、みるみるうちに茶臼原の広野に出現したのです。




 「教育院にして養育院にあらず」・・・十次の言葉です。




 でも、子どもとともに食事をし、満腹になるまで食べさせることも実践しました。




 これほど貧しい孤児たちに本気で寄り添った人物が、他に何人いたでしょうか。




 その真剣な生き方には、ただ脱帽ですね。
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