4 景山英子(かげやまひでこ) (1865 ~1927)




~女性解放運動に命をかけた東洋のジャンヌ・ダルク~




 景山英子がフランスのジャンヌ・ダルクと似ているといわれるのはなぜでしょうか。

 ジャンヌは10代の少女でしたが、フランスの自由のために侵略してくるイギリス軍と紅一点で戦いました。




 英子も18歳のとき、清 (当時の中国) の傘下にあった朝鮮の独立を助けようと、爆弾事件を計画して、紅一点で闘ったのです。



 後に逮捕・投獄されていることも共通点ですね。


 ともに自由のために命をかけた少女だったのです。




 1865年、英子は漢学者の父と女学校教員の母との間に岡山で生まれました。

 15歳で助教員も務めることができた才女でした。




 1882年、岸田俊子の演説に感激して、自由民権運動を志す決心をしたのです。




 翌年には母とともに、女性が学べるように夜間部のある私塾 「蒸紅学舎」 を設立し、演説会も開いて 「人間平等論」 を力説しました。




 しかし、集会条例に違反したとして、学舎は1年でつぶされてしまいました。


 明治政府による自由民権運動の妨害の典型的な例ですね。




 このころ、18歳の英子はすでに婚約していました。

 相手は民権論者の小林樟雄 (くすお) です。




 この小林と自由党急進派の大井憲太郎は、1885年、大阪事件を起こします。


 朝鮮の独立を助けようとする計画でした。




 英子もこの計画に加わり、女ならあやしまれないと、汽車で爆弾を運ぶ役目を買ってでたのです。


 しかし、事前に発覚し、逮捕・投獄されてしまいました。




 これはちょっと過激でしたね。




 4年間の獄中生活で、大井憲太郎は英子に熱烈なラブレターを送ります。

 見張りの目を盗み、愛を綴った紙片を彼女に送り続けたのです。




 1889年、大日本帝国憲法発布の大赦により、大阪事件の逮捕者は出獄することができました。

 大井は婚約指輪を贈り、求婚します。




 英子は意を決して小林と絶縁し、大井の内縁の妻になり、子どもも一人生まれました。

 大井とともに全国を遊説して歩きましたが、彼の浮気により、結局離婚しました。




 1892年、アメリカ帰りの自由主義者福田友作と恋愛し結婚します。

 3人の子どもも生まれました。




 彼女が 「福田英子」 と名のったのはこのためです。

 しかし、1900年、友作と死別してしまいました。




 波瀾万丈の人生ですね。




 それでも英子の自由のための活動は続きます。

 「女は経済的に自立すべきだ」



 という持論を実践し、角筈 (つのはず) 女子工芸学校を設立しました。



 その後、日本初の社会主義女性新聞である 「世界婦人」 を刊行したり、弾圧と生活に苦しみながらも、女性の結社権を禁じた治安警察法5条改正を議会に請願する運動を起こしました。



 この治安警察法という法律が女性差別であることは明白ですね。



 さらに、婦人選挙権獲得のための活動や、田中正造を後援して、足尾鉱毒事件の犠牲者となった谷中村民救済支援なども行い、自由と平等一筋に生きています。



 晩年の英子の言葉です。



 「男は駄目ね、位階や勲章に目がくらむから」




 確かに激しくて過激なところはありましたが、英子のまっすぐな生き方に共感できるところがあると考えるのは僕だけでしょうか。



 自由民権運動と女権拡張のために闘いぬいた信念は本物だと思います。



 「女性解放運動の先駆者」 として、もっと多くの人からたくさんの光が当てられるべき、明治の数少ない女性の一人ではないでしょうか。
スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://eichi862.blog.fc2.com/tb.php/94-08a55ca4