3 留岡幸助(とめおかこうすけ) (1864 ~1934)




~身分差別を乗り越えて非行少年と向き合った家庭学校の創始者~




 留岡幸助をご存知でしょうか。



 日本史上の有名人物として広く知られているとはいえませんが、基本的人権の視点から見れば、その生き方に学ぶところが大いにある人物だと僕は考えています。



 体を張って差別を乗り越え、自由と平等にかけた人ではないでしょうか。



 犯罪者差別に苦しむ非行少年と正面から向き合った、明治の歴史では特筆するべき生涯を送った数少ない人間の一人だと思います。



 幸助は現在の岡山県高梁市 (たかはしし) の理髪業を営む父・吉田満助の次男として生まれました。

 生後まもなく、分家で米の小売商を営んでいる、子どものいなかった留岡金助・勝子の養子に出されています。



 留岡夫妻は幸助をたいそうかわいがり、大切に育てました。

 近所の侍の家まで母乳を分けてもらうために、額を地べたにこすりつけて必死に懇願したほどです。



 しかし8歳のときに、幸助は過酷な身分差別に遭います。




 「おい幸助、おまえ商人のくせになぜ寺子屋に来る、生意気な、商人は商人らしく家で働いておれや」

 高梁川 (たかはしがわ) の河原でのことでした。




 士族の子どもは腰に木刀を差し、殴りかかってきたのです。

 「痛って!」 




 殴られた幸助は思わず士族の子の右手に噛みつきました。




 反撃されることに慣れていなかった相手は、驚いて泣きながら帰って行きました。

 明治になったとはいえ、まだ江戸時代の長い風習は簡単には変わっていなかったのですね。




 翌日、父親の金助は武家屋敷に呼び出され、米をはじめとする商業の取引を一切差し止められてしまいました。

 幸助は父親から何度も殴り飛ばされるという激しい折檻 (せっかん) を受けました。




 何か、大人たちの方が大人げないですね。




 その後、小学校の退学、家出、座敷牢への監禁、行商の強制など、苦難の少年時代を送っています。

 典型的な身分差別に苦しみながら、幸助は自分の納得する生き方を探し続けました。




 転機は16歳のときに訪れます。




 「武士の心も、農民の心も、商人の心も、神の前では皆同じ。

 人は生まれながらにして皆平等である」




 キリスト教ですね。




 幸助は洗礼を受けました。



 1888年には、同志社神学校に入学し、新島襄 (にいじまじょう) からも学んでいます。

 卒業後は、京都の北にある丹波教会の牧師として活動を開始しました。



 彼が特に力を入れたことは 「家庭教育」 です。




 「教育とは誰もが平等に受けることができるべきものです。

 家柄や身分、職業によって親が自分の意向のみで押しつけることはよくありません」




 道理をわきまえた愛をともないながら、家庭教育の大切さを訴えたのです。

 1891年、幸助は教誨史 (きょうかいし) になりました。




 教誨史とは、監獄への収容者、受刑者の徳性の育成や精神的な救済を行う人です。


 北海道で 「この世の地獄」 を見たからです。




 囚人たちは過酷な労働、体罰、その場での射殺もあり、わずか6か月間に300人のうち、145人が眼病、72人が死亡しました。




 犯罪者差別ですね。




 彼は監獄の改良とともに 「家庭学校」 を作り、非行少年らと正面から向き合いました。

 現在の児童自立支援施設の始まりです。




 まちがいなく言えることは、犯罪者だって 「人間」 です。


 幸助は、家庭的愛情を重視して犯罪者差別にも立ち向かったのでした。




 近年では、留岡幸助を取り上げた中学校歴史の教科書も出てきました。




 日本史上、もっと広く知られてもよい人物ではないでしょうか。

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