2 岸田俊子 (1863 ~1901)




~男女平等を主張した京都の女性民権家~




 女性差別に正面から向き合った日本史上初の女性ではないでしょうか。



 38年という短い生涯の中で、自由民権運動で男女平等を訴えて精力的に活動し、多くの人々に限りない影響を及ぼした女性が岸田俊子です。



 すでに海外ではJ.Sミルが、日本では福沢諭吉が女性解放を唱えています。


 俊子は

 「女性自身による女性解放運動の先駆者」



 として、もっと注目されるべき人物ではないかと僕は考えています。




 彼女は京都の呉服商小松屋を営む岸田茂兵衛の長女として生まれました。

 小さい時から秀才の誉れが高く「京の神童」と呼ばれて周囲からもてはやされていました。

 


 この背景には母タカの教育があります。

 母は日蓮の立正安国論や中国の漢詩を読み書きするなどしていて、俊子にも3歳のころから教えはじめました。




 浄瑠璃 (じょうるり) や芝居も見学させ、かなり早くから自らの手で学問教養を身につけさせる教育をしていました。

 女子師範学校まで進みましたが、病気で退学することになりました。




 その後1879年、宮中女官に抜擢されます。

 これは平民女性としては初めてのことで、当時相当な栄誉だったのでしょう。




 皇后に漢学を進講する仕事などをしましたが、長続きはしませんでした。

 1年あまりで病気を理由に辞任しています。

 


 後の俊子の自由な活動から考えると、宮廷生活というものは、どう見ても彼女の性分には合わなかったのではないでしょうか。




 1881年、土佐旅行をきっかけに自由民権運動に参加します。


 弁舌にも優れている俊子は、全国を遊説して歩きました。




 彼女の演説をたった一度きいただけでそのことばにうたれ、自分もまた語りだし、歩み始める女性も出始めました。


 男女平等論や一夫一婦論、女子教育論、藩閥政治批判などに熱弁をふるい、人気を集めました。




 論理的な説得力を持っていたので、男女を問わず共感できた人々が増えたのではないかと思います。




 しかし、彼女の前にも藩閥政治の権力が立ちふさがります。

 1883年、滋賀県大津での演説 「箱入娘」 が政治演説とみなされ、集会条例違反で罰金、投獄されてしまいました。




 国民の目線から見れば、この集会条例そのものが、不自由で理不尽であることは明白ですね。




 自由民権運動を妨害するための、政府のための決まりだったのです。


 翌年、男性の理解者になるのでしょうか、自由党の中島信行と結婚して、中島俊子と名のりました。




 1884年、自由党系の新聞 「自由燈」 (じゆうのともしび) に10回にわたり連載記事を発表します。


 題名は 「同胞姉妹に告ぐ」 です。




 この中で彼女は訴えます。


 「男尊女卑は野蛮な欲心からでるもので、男女の関係は愛憐をもってせよ」 




 男本位の社会や民権運動の中の女性差別も鋭く指摘しました。




 その後、「女学雑誌」 に女性の地位向上をめさす評論、随筆、漢詩を次々に発表し、女性解放のために新しい意識をもつ進歩的女性になりました。




 女性差別が多くの場合、「男性の問題」 であることは言うまでもありません。

 差別はいくつかの例外を除いて、される側ではなく、「する側の問題」 だからです。



 しかし、俊子は知人にこんな本音も漏らしています。

 「私は実は女が大嫌いさ、つまらん外部ばかりの話をしてな、どうも疲れるよ。」



 この言葉の背景にはいったい何があるのでしょうか。




 女性差別は大きな人権侵害の一つです。


 その解放のために歴史上の第一歩を踏み出した岸田俊子。




 僕は新たに教科書に載せるべき人物の一人ではないかと思います。
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