8 植木枝盛 (1857 ~1892)




~憲法草案を作り国民主権と革命論を唱えた自由民権運動の理論家~




 「自由は土佐の山間より出づ」



 これは植木枝盛(うえきえもり)の言葉です。



 自由民権運動で有名な立志社に所属し、板垣退助のもとで、その36年という短い生涯を自由と平等にかけた活動家でもあります。



 僕が中高生のときは習いませんでしたが、近年では教科書や資料集でもおなじみの人物になりました。


 すでに明治時代に、現在の日本国憲法の基本的人権や国民主権の下敷きになった憲法草案を作った人として知られています。



 枝盛は土佐の中等の藩士の子として現在の高知市で生まれています。

 8歳から習字を学び、藩校の致道館でも学びました。



 1873年、土佐藩の海南私塾の生徒として抜擢されましたが、枝盛は私塾の陸軍士官予備門的な方針が不満だったのです。



 わずか半年で退学してしまいました。



 1875年、19歳で上京し、福沢諭吉の慶応義塾や三田演説会で自由な思想を学んでいます。

 これは彼にとって極めて大きな体験であったと考えられますね。



 ところが、とんでもないことがおこります。

 1876年、「郵便報知新聞」 に投書した彼の 「猿人君主」 が掲載されると、2か月間投獄されてしまったのです。



 その内容 は「言論の自由を制限する明治政府のやり方は人を猿にするのと同じだ」 というものです。



 政府を批判しただけで監獄に入れられてしまうのですね。



 上から目線で国民を見下している様子がよくわかります。

 はたして当時の明治政府は国民の代表といえたのでしょうか。



 しかし、いくら力で抑えつけても、多くの国民が本当に望んでいる 「自由」 への志は消滅しませんでした。

 枝盛は出獄後、早速 「人民の革命権」 を主張しています。



 さらに1877年、高知へ帰り、立志社に入ります。

 板垣退助の演説に感動したからです。



 さらに愛国社、国会期成同盟、大同団結運動にも参加し、遊説なども行って、本格的に自由民権運動で活躍しました。数々の執筆活動も行っています。



 中でも僕が特に注目しているものは、「東洋大日本国憲案」 という1881年の私擬憲法の草案です。


 220条からなる膨大なものです。



 その第42条には 「日本の人民は法律上において平等となす」 と明記されています。


 また第49条では 「日本人民は思想の自由を有す」 とあります。



 この8年後に日本史上名高い 「大日本帝国憲法」 が正式に公布されますが、国民のための憲法はどちらであるか、ここに書くまでもありませんね。



 そのほか、地方自治を尊重すること、立法権を全国民に属するものとすること、死刑制度の廃止なども明記されています。



 その後、男女平等や家族制度廃止についても新聞紙上で主張しました。



 中江兆民らとともに 「自由新聞」 の社説を担当したこともあり、1890年には、第1回衆議院議員総選挙に高知県から立候補して当選しました。



 しかしその2年後、第2回の衆議院選挙を前にして胃潰瘍が悪化し、わずか36歳の若さでなくなりました。



 あまりにも惜しい人物を亡くしたと考えるのは僕だけでしょうか。


 植木枝盛は若くして亡くなったために、死後長い間日本の歴史から忘れられていました。




 彼の業績に再び光が当てられ始めたのは、時代が昭和になってからです。

 鈴木安蔵や家永三郎の努力によってよみがえったのです。




 これから将来も、もっと大きく扱われるべき人物ではないでしょうか。




 基本的人権の視点から見ると、日本の歴史上なくてはならない重要な活動をした人だと僕は考えています。

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