7 小野 梓 (1852 ~1886)




~自由を求めて自ら平民になった土佐の武士~




 当時、この反対ならありました。

 お金を出して買ってまでも、士族の身分を欲しがる平民はたくさんいたのです。



 18歳の小野梓 (おのあずさ) はその逆をやりました。



 なぜでしょうか。



 自分が行きたい学校の選択の自由、学問の自由を勝ち取るためです。



 武士の身分のままでは、土佐藩から藩校に指定され、強制されてしまいます。

 わざわざ伯父の養子になって、平民になりました。



 勇気があり、心が解放されていたからこそできることですね。



 梓は幕末の土佐藩宿毛 (すくも) で、低い身分の武士の子として生まれました。

 武士どうしの歴然とした差別の中で少年時代を過ごしています。



 5歳のときから習字、9歳で儒学を学びますが、なまけてばかりいました。

 11歳のころに漢学校ができてから頭角を現し始めました。



 1869年、明治維新で東京に出て昌平校を選んで学びはじめました。

 しかし、藩からそれを否定され、帰国の命令により土佐へ送り返されたのでした。



 1870年、平民になって再び宿毛を出た梓は、大阪で英語を学びはじめ、後に海外留学をしました。

 清国やイギリス、アメリカに渡り、経済や法律の勉強を積んだのです。



 このときに学んだイギリスの立憲政治は、彼のその後を決定づけるものになったと考えられますね。



 帰国後、文化啓蒙団体である 「共存同衆」 を結成し、「共存雑誌」 を発行しています。



 日本で行われていた藩閥政治に多くの疑問をいだき、各省の情実や因縁による弊害を除去するために、会計検査院の設立を建言しました。



 30歳のとき、親友の大隈重信が参議たちからのけ者にされて辞職しました。

 このとき梓も会計検査官をやめて、自由民権運動を始めます。



 有名な「立憲改進党」 ですね。



 大隈重信に立憲改進党の結成を進言してその準備工作を行ったのは、主として小野梓だったのです。



 イギリス流の議会政治を主張して、当時の藩閥政府と闘いました。

 私擬憲法である 「国憲私案」 も起草しています。



 誰が国民の立場に立っているか、誰が自由のための闘っているかは明白ですね。



 「学問の独立」 も主張してその実現のために行動しました。

 当時の官立大学はまったく官僚の意のままで、独自の精神もなく諸外国の模倣に過ぎないと考えました。



 東京帝国大学では、日本人の教師までが英語で講義をしており、英語の講義でなければ学問ではないように考えられていたのです。



 梓は、次のように批判しました。


  「外国の文書と言語をもってのみ教育が行われていては、学問は独立できない」 



 この自由な学校を設立しようという意見が、大隈重信と一致しました。

 大隈は新しい学校設立の準備を小野梓に一任したのでした。



 梓はすでに若い学徒を集めて鴎渡会を組織し、政治経済の学術研究をしていましたが、このメンバーを中心にして、大隈の別邸に学校を開く準備をはじめました。



 こうして設立されたのが 「東京専門学校」 です。



 現在の早稲田大学ですね。



 教師が日本語で教育したことも、当時としては大評判になりました。



 1886年、小野梓は肺結核で倒れます。

 わずか35歳の若さでした。



 しかし、その短い生涯は一貫して国民の自由のためにあり、現在そして将来にも限りない多大な影響を及ぼしいくことでしょう。



 彼の生き方に共感できる人はたくさんいるのではないでしょうか。



 僕はもっと日本全国の多くの人々に知られてもよい人物だと考えています。
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