6 中江兆民 (1847 ~1901)




~自由と国民主権をめざして権威・権力と闘った東洋のルソー~




 フランスの有名な啓蒙思想家、ルソーの考え方を日本全国に広めたことで知られていますね。


 国民主権や政府への抵抗権は、自由民権運動の理論的根拠の一つになっています。




 服装、身だしなみにもこだわらず、さまざまな社会的な因習にも反逆をくりかえしたので、奇人としても噂になる人物でした。


 しかし、明治時代にこれほど差別意識から解放され、自由に行動できた人も珍しいのではないでしょうか。




 兆民は幕末に土佐の足軽の家に生まれています。

 坂本龍馬と同じ同郷の 「下士」 で、武士とはいっても 「上士」 たちから強烈な差別を受ける立場にありました。




 龍馬が長崎で海援隊を主宰していたころに、兆民は運命的な出会いをしています。

 限りなく自由でスケールの大きな生き方をする龍馬を、終生敬愛していたと伝えられています。




 龍馬のたばこを買いに走ったこともありました。

 その生きざまについて多くのことを学んだことでしょう。




 時代が明治になって、兆民は私塾の教頭をやっていました。

 英語やフランス語などの語学に優れていたのです。




 政府派遣の留学生になろうと切望しましたが、公式の選考に漏れてしまいました。

 そこで、大久保利通への直談判 (じかだんぱん) をやろうとします。




 屋敷を訪ねましたが、紹介状もなく、汚い身なりの兆民は会ってもらえず、何度も断られました。




 最後の手段です。




 大久保の馬車を強引に引き止め、直接留学を訴えたのです。


 「大久保さん!海外留学を官立の学校生徒に限るとは、いったいどういうことですか」




 にはじまり、大久保の、なぜ同郷の板垣や後藤などの先輩に頼まないのかという質問には毅然と言い返しました。


 「私は、そういうつてを利用するのは正しくないと思っています」




 この一言で大久保の心は動きました。




 結局兆民は、岩倉使節団に加わり、フランス留学を果たしたのです。

 この留学が、中江兆民のその後の生き方を決定づけたと僕は思います。




 ルソーの 「民約論」 に学び、帰国後は外国語学校の校長を経て、東京の自宅に 「仏蘭西(フランス)学舎」 を創立しました。




 35歳のとき、西園寺公望 (さいおんじきんもち) の創刊した 「東洋自由新聞」 の主筆になりました。

板垣退助の自由党の設立にも参画し 「自由新聞」 紙上で民権思想を訴え、薩長藩閥政治と闘いました。




 たくさんの国民から喝采を受けたのは言うまでもありません。


 国民の立場に立った、国民のための活動だからですね。




 1886年、自由民権運動の激化事件でおとろえていた運動を、再び高揚させました。


 星亨 (ほしとおる) や後藤象二郎らとともにおこしたこの民権運動は、特に 「大同団結運動」 と呼ばれています。




 4年後の1890年、ついに第1回衆議院選挙が行われました。

 日本史上初めてのことですね。




 兆民はこの選挙に大阪四区から立候補し、見事にトップ当選を果たしました。


 国民の本当の代表者は誰であるかが証明されたのですね。




 死に際も鮮やかです。




 「医学の進歩に貢献したいので、自分が死んだら解剖に使ってくれ」




 「葬式に宗教上の儀式はいらない。

 友人や親せき、知人などが集まって酒でも飲んでくれ」




 まさにこの通りに実行されました。

 このときに初めて 「告別式」 という言葉が生まれたのです。




 現在でも使われていますね。

 兆民らしい解放された最期です。




 新しい時代を一般庶民の立場から切り開き、差別や権威、権力と闘いぬきました。




 近代日本における抜きん出た存在で、自由と平等にかけた中江兆民。



 その生き方に共感できるのは僕だけではないと思います。
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