4 大隈重信 (1838 ~1922)




~排除の差別を乗り越えて民衆とともに生きた首相~




 この時代の政治家の中では、最も国民に近い人だったのではないでしょうか。


 だから国民からの人気がとても高かったのだと思います。




 明治政府の役人でありながら、自由民権運動の大切さをいち早く認めたのは大隈重信です。

 そして自らもこの運動に参加しました。




 多くの藩閥政治家たちが自由民権運動を弾圧し、一部の政治家たちに都合のよい政策を展開していましたが、大隈は違いました。




 一般庶民の立場に立てる人だったのですね。




 1838年、佐賀藩士の長男として生まれました。

 父親は砲術長を務める上士でした。



 7歳のときに藩校である弘道館に入学し、儒教教育を受けることになったのです。


 しかし、人間の上下関係を重んじるところがある儒教に早くも反発し、藩校の改革を訴えています。



 騒動をきっかけに退学になりました。


 後に復学を許されましたが、弘道館には戻りませんでした。



 結局儒教、特に朱子学は、幕藩体制における支配者にとって都合のよい学問だったので、大隈は反発したのではないでしょうか。



 彼が熱心に学んだのは、国学と蘭学、そして英語でした。

 尊王攘夷運動に熱をあげて、志士の一人として活動します。



 そして1867年、15代将軍徳川慶喜に大政奉還を勧めることを計画し、脱藩して京都へ行きました。


 ところが佐賀藩に捕まり、捕縛されて佐賀に送還され、1か月の謹慎処分を受けてしまいました。




 波乱万丈の幕末でしたが、古い制度にとらわれず、新しい時代を作ろうとしていた強い意志が伝わってくるできごとですね。



 1869年、大隈は被差別部落の解放令に接します。

 当時大蔵大輔という役職にありました。



 渋沢栄一から提出された戸籍に関する草案は、後の解放令の原案だったのです。



 不十分ながら、公布されました。

 欧米諸国も身分制度廃止と平等を唱えていたのです。



 これで部落差別がなくなったわけではありません。



 課題は残りますが、少なくとも江戸時代の穢多 (えた)、非人という身分差別のよび名だけは法的に否定されたことになったのです。



 1881年、「明治14年の政変」 で大隈は政府を追放されます。

 佐賀藩出身であったため、薩長藩閥から仲間はずれにもされていました。



 排除の差別ですね。

 

 自由民権運動に同調したとして他の役人から圧力を受け、「国会開設の時期が早すぎる」 という意見の伊藤博文とも対立しました。



 しかし、これを機に、大隈は 「立憲改進党」 を結成し、本格的に自由民権運動を開始しました。



 全国の多くの国民の立場に立った活動ですね。

 イギリス流の二院制の議会政治を主張しました。



 1888年、大隈は黒田内閣の外相として、不平等条約の改正交渉も行っています。



 領事裁判権撤廃のために努力をしましたが、外国人判事任用の案があったことが知れわたるとテロにあって負傷します。



 右足を失って義足を使用することになりました。


 その後二度にわたり首相を務めました。




 特に短命でしたが、1回目の隈板内閣 (わいはんないかく) は板垣退助と組んだ日本初の政党内閣として有名です。


 あくまで藩閥政治と闘いました。




 また、1882年には自主独立の精神を備えた人材を育成すべく 「学問の独立」 を掲げて東京専門学校 (後の早稲田大学) を創設しています。




 大隈重信は楽天的な人柄で 「民衆の政治家」 として親しまれていました。



 数ある政治家の中で、彼ほど差別意識から解放され、国民の立場に立ち、国民の目線で活動した人権感覚豊かな人は稀ではないでしょうか。



 日本史上、特筆するべきで、なくてはならない人物だと僕は考えています。
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