3 板垣退助 (1837 ~1919)




~自由民権運動で藩閥政府と闘った高知の上士~




 国民の声が政治に反映される。

 現代の世界中の民主主義国家では国会が開設され、国民が議員を選んでいます。




 日本で初めてこの道筋をつけた人が板垣退助ですね。



 それまでの明治政府は、薩摩、長州出身者を中心とする一部の人たちによる藩閥政治で、憲法もなく専制政治だと批判されていました。



 革命という言葉はあまり使いませんが、彼が始めた 「自由民権運動」 は、日本史上の革命的なできごとだったのではないでしょうか。



 彼が生まれたのは幕末の土佐藩でした。

 上士という上級の武士で、幼いころから優等生でしたので、藩の要職を歴任しています。



 その反面、過激なところもあって、倒幕運動ではあくまで武力で江戸幕府を倒すことを主張しました。

 戊辰戦争では山梨県勝沼で新撰組を撃破しています。



 東北でも仙台藩や会津藩と戦い、大きな軍功をあげました。



 後に参議となって明治政府の中枢に入りましたが、朝鮮に武力を差し向ける過激な征韓論の主張は、さすがに受け入れられませんでした。



征韓論は、韓国を武力で従わせようとする主張ですから、差別的であることは明白です。



 この一件で板垣は参議をやめて高知に戻ります。



 しかし、自分の意見は通らなかったものの、このことはかえって板垣が冷静に考え、自由に活動できるきっかけになりました。



 1874年、板垣は後藤象二郎 (しょうじろう) らとともに 「民撰議院設立建白書」 を左院に提出しました。


 つまり、国会をつくれということですね。



 同年、高知に 「立志社」 をつくりました。

 僕は数年前、この立志社の跡地につくられた石碑の前に立ちました。



 僕の好きな言葉が、石碑に刻まれているからです。

 「自由は土佐の山間より出づ」



 歴史上有名な 「自由民権運動」 の始まりです。



 この人権感覚豊かな運動の背景には、板垣の東京での挫折があったのです。

 この立志社は後に大阪で 「愛国社」、さらに 「国会期成同盟」 に発展し、多くの国民から支持されることになります。



 1881年、自由党を結成しました。


 フランス流で、板垣の性格を反映して急進的です。



 一院制や主権在民、普通選挙を主張しました。

 まさに近代国家のポイントを絵にかいたような適格な主張ですね。



 国民の立場に立っていることは明白です。


 「自由新聞」 という機関誌も発行して、全国を遊説、民衆に訴えたのです。



 ところが、ピンチに立たされます。



 1882年、遊説途中の岐阜で暴漢に襲われます。

 突然、胸と右手を7か所刺されて、無残な血まみれの姿になりました。



 自由のための闘いは命がけですね。



 倒れた板垣は 「痛い、痛い」 とうめいていましたが、後にマスコミも味方したのでしょうか、この 「痛い、痛い」 が 「板垣死すとも自由は死せず」 という名言になって報道されました。



 詳細は不明ですが、幸いにも命を取りとめることはできました。



 1890年、さまざまな政府の妨害や紆余曲折があり、不十分ではありましたが、日本初の衆議院選挙が行われ、国会が開かれました。



 第1回帝国議会とよばれています。

 ここに国民の声が政治に反映される第1歩が始まったのです。



 1898年には、自由党と進歩党 (前の立憲改進党) が合同して憲政党を結成すると、伊藤博文内閣は政権を投げ出しました。



 隈板内閣 (わいはんないかく) という、日本初の政党内閣の成立です。


 首相は大隈重信、内務大臣は板垣退助でした。



 しかし、内部対立により、この内閣は短命でした。



 1900年、板垣は政界から引退します。

 その後19年、83歳まで生きました。



 すでに次の大正時代です。



 しかし、命がけの運動の成果は、21世紀の現在にまでおよんでいます。



 痛い目にあいながらも、人間の自由と平等を国民全体とともに勝ち取ろうとした板垣退助。



 彼こそ人権の視点からの歴史上、なくてはならない人物ではないでしょうか。

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