2 高松凌雲 (1837 ~1916)




~戊辰戦争で敵味方なく治療にあたった日本赤十字の先駆者~




 高松凌雲 (たかまつりょううん) をご存知でしょうか。


 ナイチンゲールの精神を、日本で医師として初めて実践した人です。




 敵味方や貴賤貧富の差別なく、純粋に医療活動を行った、日本の歴史上特筆すべき人権感覚の持ち主ではないでしょうか。



 明治維新のとき、政府から多数の役職に就く誘いがありましたが、それらをすべて断り、あくまで町医者として庶民とともに生きました。



 権威や肩書よりも人間を大切にした人だったのですね。



 凌雲は現在の福岡県小郡市で、庄屋の三男として生まれました。

 農業の傍ら読み書きを学んでいます。




 18歳で庄屋見習いをしますが、20歳のとき養子に出されてしまいます。

 三男は外に出ろ、ということでしょうか。




 出された先は、久留米藩家老の川原弥兵衛でした。

 つまり、武士として生きろということですね。




 この時代、お金で武士の身分を得るということは珍しくありませんでした。

 何か心に引っかかるものを感じますね。




 しかし、凌雲は武士の生活に失望します。

 家臣の家臣はいつまでたっても家臣の家臣という制度がありました。




 また、当時の藩内では佐幕と勤皇の2つの派閥が反目しあい、権力争いをしていたのです。


 これは自分のやりたいことではないと悟ったのでしょう。




 22歳になると、黙って養家を出てそのまま久留米を去りました。


 勇気ある脱藩ですね。




 凌雲は武士の身分に見切りをつけ、自分がやりたい医学を志して江戸に向かいました。


 江戸や大坂、横浜などでさまざまな人に学んでいますが、ここで僕が注目したいのは、緒方洪庵との出会いです。




 大坂の適塾で洪庵から学んでいるのです。

 医学だけでなく、貴賤貧富の差別なく患者を診るという人権意識も身につけたのだと思います。




 1865年、努力が実ります。

 凌雲は徳川氏の分家、一橋家から専属医師として抜擢されたのです。




 さらに一橋家出身の徳川慶喜が15代将軍になり、幕府から奥詰医師として登用されました。


 1867年、パリ万国博覧会が開かれました。




 凌雲はこの日本代表団の随行医としてフランスに渡り、その後もパリで留学を続けることができたのです。

 ここでオデル・デュウ (神の家) に出会い大きな衝撃を受けます。




 そこに併設された病院では貧富の区別をせず、貧しい人たちが無料で診察・治療を受けることができました。




 国からの援助を受けない民間病院です。

 この衝撃が凌雲のその後の生き方を決定づけることになります。




 帰国したときは戊辰戦争 (ぼしんせんそう) の真最中でした。

 最後の箱館戦争に野戦病院である箱館病院の医師として参加します。




 彼は自分を留学させてくれた旧幕府に恩を感じ、幕府側としての参加でした。

 敵兵である官軍の負傷兵が病院へ運ばれたとき、患者たちの中には




 「外に放り出せ!」

 と叫ぶ者、刀を抜いて襲いかかろうとする者がいました。




 凌雲は

 「負傷した者は私の患者だ。



 患者に敵も味方もない」

 と叫んで治療にあたりました。




 明治初めの日本にも、男性版のナイチンゲールがいたのですね。




 1879年、凌雲は 「同愛社」 を設立します。

 賛同する医師14人が社員の民間組織です。




 貧しい人々を無料で診察しました。

 その数100万人ともいわれ、後の日本赤十字社にこの精神は受け継がれていきます。




 赤十字の先駆者で、貧しい人々とともに生きた高松凌雲。

 僕はつい数年前まで、彼の名を知りませんでした。




 基本的人権の視点から見た日本史上に欠かせない人物として、もっともっと多くの人に知られてもよいのではないかと思います。
スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://eichi862.blog.fc2.com/tb.php/84-4acebfd5