12 松平春嶽(まつだいらしゅんがく) (1828~1890)




~相手の身分に関係なく人に会った越前・福井藩主~




 「普通の殿様ではありません。身分よりも人物を見抜いたのです」



 これは、福井市のある博物館職員の方の言葉です。

 彼はさらにこう続けました。



 「幕府の大老にも匹敵する政事総裁職という重職でありながら、いち早く議会制民主主義を説いた人でもあります」



 幕末四賢侯 (しけんこう) の一人とまで謳われ、領民からも愛され続けた藩主です。

 しかし、春嶽は時の権力者により隠居・謹慎を命じられて幽閉されています。



 いったいなぜなのでしょうか。



 春嶽は幕末の1828年、江戸城内の田安屋敷で生まれました。

 彼は12代将軍徳川家慶 (いえよし) の従弟で、御三卿 (ごさんきょう) 田安家の出身です。



 御三卿というのは享保の改革で有名な8代将軍徳川吉宗から分かれた分家です。



 ところが1838年、福井藩主が若年で病死し、後継ぎがいなかったため、急きょ春嶽が養子となり、福井藩主を継ぐことになったのです。



 福井藩は徳川家康の次男、結城秀康を祖とする親藩だったからですね。



 彼の妻は勇姫 (いさひめ) といいます。

 熊本藩主の三女でした。



 彼女は7歳のとき、当時13歳だった春嶽と婚約します。



 ところがその後、猛威をふるっていた天然痘に罹患してしまいました。

 一命はとりとめたものの、顔に 「あばた」 が残ってしまったのです。



 熊本の細川家はこれを憂い、婚約の辞退を申し出てきました。

 これに対して春嶽は



 「心が美しければ、いささかも気に留めることはない。

 相手がどんな身体になろうとも結婚する」



 婚約実行です。



 とてもいい話ですね。



 彼の人柄がこの一言に凝縮されているのではないでしょうか。

 結婚後、春嶽が勇姫を大切にしたことは言うまでもありません。



 藩政も熱心に行いました。

 財政の立て直しを図る藩札の発行や、洋学教育を刷新するため、明道館という学校も作りました。



 「国際社会の中でどう生きるか」 

 を視野に入れていたのです。



 優れた人材は家柄にかかわらず登用しました。



 中でも熊本藩士の儒学者、横井小楠 (よこいしょうなん) を政治顧問に迎えたことは歴史上広く知られています。



 極めつけは坂本竜馬でしょう。



 春嶽は、当時脱藩浪人だった竜馬と正面から向き合い、5000両という大金を貸しています。

 現在のお金に換算すると約11億円になります。



 びっくり仰天ですね。



 竜馬の器を見抜いたからです。



 「この男は日本を変える男になるに違いない」

 ということですね。



 身分や家柄にこだわっていては、このようなことはできません。



 春嶽は後に、こう言い切りました。



 「坂本竜馬から懇切丁寧な忠告を受けた。

 まことに感激にたえない」

 

 残念ながらその詳細はわかっていませんが、竜馬も春嶽の度量の大きさを見抜いていたのでしょう。



 勝海舟に紹介状を書いて、竜馬を会わせたのも春嶽です。

 竜馬はすぐに勝の弟子になりますが、実は最初は勝を殺そうとしていたのです。



 驚くことに、春嶽はこの危険な事実を知りつつ会わせたのでした。

 勝海舟に対する絶大な信頼が、危険な出会いを実現させたのですね。



 そして、雄藩連合政権樹立に向けて前進していきます。



 新しい時代の幕開けです。



 ところが1859年、時の大老、井伊直弼 (いいなおすけ) によって隠居・謹慎を命じられ、江戸霊岸島に幽閉されたのです。



「安政の大獄」 と呼ばれる事件です。

 身分差別を背景とした強権で痛い目にあいましたが、これに耐え62年に復帰します。



 政事総裁職という現在の総理大臣に相当する立場でした。



 歴史を変えた勝や竜馬を陰から支えた見逃せない歴史上の人物。



 僕は春嶽こそ、もっと多くの人に知ってほしい逸材だと考えています。
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