11 楠本イネ (1827~1903)




~二重の差別を乗り越えて医学の道をまっとうした日本の女医第1号~




 二重の差別とは何でしょうか。



 一つは女性差別であり、もう一つは混血児に対する排除の差別です。



 近代医学の世界は男社会であり、女性の医師は誰もいません。

 さらに楠本イネの父親は、ドイツ人医師のシーボルトです。



 母親は長崎の遊女でした。



 日本初の女医をめざすイネは、その過程で男性から暴行され、未婚の母になります。

 混血児は当時稀 (まれ) で、偏見のまなざしで見られ、社会から冷たく扱われて差別されていました。



 イネが生まれた時代は幕末で、まだ鎖国中でした。

 父のシーボルトはオランダ商館の医師として、長崎の出島に滞在していました。



 彼は鳴滝塾 (なるたきじゅく) を開いて、日本人医師に西洋医学を指導していたのです。

 出島で遊女の楠本たきに出会い、妻として迎え結婚しました。



 しかし、父は日本地図を国外に持ち出そうとしたこと (シーボルト事件) で、幕府から国外追放の処分にされてしまったのです。



 イネはまだ幼く、3歳でした。

 母のたきはその後再婚し、イネもその再婚先で生活することになります。



 父親のいない連れ子という逆境の中にありました。



 しかし、父親ゆずりの明せきな頭脳と美貌を持ち合せた娘に成長し、医学を志すようになったのです。



 ドイツに帰国したシーボルトは、その後も何回も手紙を書いたりして、たきとイネには精いっぱいの愛情と誠意を注いでいます。



 30年後には再来日も果たし、感激の再開をすることができました。


 シーボルトの人柄が伝わってくるようなできごとですね。



 イネの医学への志は、父の教え子たちによってその扉が開かれます。

 まず、伊予 (愛媛県) 宇和島に住む二宮敬作です。



 四国に渡り、ここで医学の基礎をしっかりと学び、日本初の女医への第一歩をふみ出しました。



 イネは女性だったからでしょうか、産科医を専門に学ぶことを二宮から勧められて、やがて石井宗謙 (そうけん) について学ぶことになりました。



 彼もやはり父の教え子だったのです。

 イネは当時19歳で、石井を紹介されて岡山へ渡りました。



 ここで7年間学んでいます。



 ところが、ここで大きな人権侵害にあいます。

 岡山に訪ねてきた母たきを見送って帰る小船の中で、イネは石井にレイプされてしまったのです。



 さらに不運なことに、このレイプにより妊娠し、25歳で未婚の母になりました。



 産科医を目指すイネは堕胎を嫌ったのです。

 無事に女児を出産しましたが、医学は中断です。



 失意に暮れ、娘を連れて故郷の長崎に帰りました。

 石井は後に鳴滝塾の同窓たちから、破門同然の制裁を受けました。



 この人権侵害を知った二宮は責任を痛感し、イネを再び宇和島へ招いています。



 後には、やはりシーボルトの教え子だった大村益次郎 (ますじろう) の知遇を得ることになりました。

 大村は外科医で、イネは大村について外科医の勉学にも励むことができました。



 彼について江戸に出たイネはついに開業医になり、志を果たすことができました。

 福沢諭吉の支援も受けて、その後医師として大いに活躍しています。



 小さいころからさまざまな差別にさらされ、身も心もズタズタにされたこともありました。



 女医誕生までの道は、まさにいばらの道でした。



 その逆境を自らの信念と志で見事に乗り越えて自立した楠本イネ。



 僕は彼女こそ、もっと広く多くの人に知ってもらいたい人物だと思います。
スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://eichi862.blog.fc2.com/tb.php/80-dee84bf5