10 勝 海舟 (1823~1899)




~身分差別を乗り越えて対等な外交を主張した幕臣~




 この時代に、彼ほどスケールの大きな人物がいたでしょうか。


 現在、および将来にも通ずる世界観の持ち主だったと僕は考えています。




 海舟の一生の晩年にあたる1894年、日清戦争が起きています。

 このとき彼は、次のように発言しています。



 「伊藤博文をはじめとする政府高官たちは、日本を欧米と並ぶ文明国として、アジア諸国を一段下に見ている。

 日本だけが優越意識を持ち、アジア諸国を蔑視して戦争を進めようとするのは愚の骨頂」



 また、大政奉還直後の有名な 「江戸無血開城」 では、官軍の西郷隆盛に対し

 「江戸の町でいくさが始まれば、いちばんひどい目にあうのは武士ではなく、江戸を脱出することもできない庶民です」



 と発言し、江戸城の総攻撃を思いとどまらせています。




 身分は幕臣という幕府側の立場にありますが、民衆のことを第一に考えていることは明白ですね。


 いずれも優れた人権感覚の持ち主であるからこそできる発言だったのではないでしょうか。



 ただし、一つだけ例外があります。



 妻の民子の立場から見れば、海舟の人権感覚に疑問をもたざるをえない行動がありました。

 このことは、第4集で、「勝民子」 として書く予定ですので、ここでは詳述を避けます。



 1823年、勝海舟は旗本の子として江戸で生まれました。

 しかし、旗本とは名ばかりの貧乏所帯で、一日三食もままならない状態でした。



 少年時代は麟太郎 (りんたろう) という名で、9歳のときには野犬に睾丸を噛まれて、手術をしています。


 オランダ語の辞書を買う金がないので、友人から全58巻の辞書を借りて写本を作って勉強しました。



 驚異的な努力家ですね。



 その甲斐あってか、幕府の翻訳係をすることができました。



 1854年、長崎に海軍伝習所がつくられ、オランダ人の指導と訓練を受けるようになりました。

 ここでは身分に関係なく、有能な者たちをとりたてる努力をしました。



 6年後の1860年、海舟は咸臨丸 (かんりんまる) に乗って船酔いに悩まされ苦しみながらも、37日かけてアメリカのサンフランシスコに渡ることができました。



 この体験で彼は確信したのだと思います。


 「攘夷 (じょうい) は無謀である」 ということですね。




 この 「夷」 という文字も、外国を最初から敵、野蛮人という意味にもとれる差別的な言葉です。


 海舟が海軍に力を入れたのは、外国と対等につき合うためで、見下したり侵略しようというものではありません。



 ペリーの黒船来航のときのように、おどされることがないようにする考えから来るものです。

 当時の中国である清 (しん) のアヘン戦争の二の舞にならないようにすることが必要と考えたのです。



 その上で海舟は見抜いています。



 「西郷さん、もう今の幕府はみえをはるだけで、どんな問題も解決できる力はありません。

 今の日本で幕府だ、薩摩藩だ、長州藩だのともめているときではありません。



 これからは、力のある雄藩が連合を組んで、国政を運営する。

 これしかねえな」



 周知の通り、この意見は後に実行されましたね。



 明治維新の三傑の一人である西郷隆盛の生き方を変え、新しい時代へと動かしたのは勝海舟だったのです。



 明治維新の新政府では、海軍大輔 (たいふ) として迎えられました。

 さらに参議兼海軍卿や元老院技官にもなりましたが、すぐに辞職して、以後政治にはかかわりませんでした。



 薩長人脈で占められた新政府に嫌気がさしたからです。



 地位や肩書にこだわらず、旧幕臣で生活に困っている人たちのために活動しました。


 海舟は刀剣類をはじめ、焼き物や書、絵などを預かって売り、彼らを救済したのでした。




 新しい日本に向けて理論的指導者の役割を果たした勝海舟。



 教科書でもっと大きく取り上げてもよい人物ではないでしょうか。
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