8 横井小楠 (1809~1869)



~共和制と世界平和を唱えた熊本の思想家~



 江戸時代に横井小楠 (よこいしょうなん) ほど開明的な思想をもった人物が、他のどれだけいたでしょうか。

 封建的世襲制や身分差別を否定して、身分を超えた討議が新しい政治の基盤になると考えました。



 また、外国との貿易をすすめることを大切にし、鎖国や幕藩体制を批判しています。



 さらに富国強兵の果てに来るであろう、他国侵略の危険性を警告し、世界平和を提唱しました。



 まさに現代および将来にも通ずる考え方で、人権感覚に優れた人でなければ出てこない、当時としては画期的な意見だったのではないでしょうか。



 小楠は熊本藩士の子として生まれ、幼いころから藩校の時習館で学んでいました。

 当時から優秀で、将来は藩校の教授にと期待されていました。



 31歳のときに江戸に遊学し、見聞を広めて頭角を現していきます。



 彼の鋭い理論と激しい議論は有名になりました。

 後に維新の三傑の一人として知られた木戸孝允 (きどたかよし) の言葉です。



 「横井の舌はまるで剣のようだ。緊張の連続だった」



 ところが、この江戸遊学はわずか1年ほどで中断させられてしまいます。

 小楠はある忘年会の宴席で、政治を批判する漢詩を作ったのです。



 このことが熊本藩の江戸留守居役の耳に入り、帰藩を命じられて、70日間の謹慎処分を言い渡されたのでした。



 保守的な藩の上層部のいじめがあったのでしょうか。



いずれにせよ、政治を批判する意見も言えないくらい窮屈な状態で、武士どうしもまた、強力な幕藩体制のもとで差別されていました。



 意外なことに、彼が謹慎中に一番苦しんだことは、「酒が飲めない」 ということでした。

 たまりかねた小楠は、神棚に供えられているお神酒 (みき) に手を出し、こっそり盗み飲みをします。



 ここで助け船が出ます。

 兄はこれを黙認し、兄嫁は酒をつぎ足してくれていたのです。



 この兄夫婦のさりげない好意に支えられ、小楠は謹慎生活を耐え抜くことができたのです。

 お酒大好きな彼は、大きなピンチを乗り越えることができたわけですね。



 1855年、小楠は私塾 「四時軒」 (しじけん) を開き、多くの門弟を養成します。

 ここには、後に幕末の風雲児として有名になる坂本竜馬や井上毅 (こわし) も訪問して学んでいます。



 福井藩主の松平春嶽 (まつだいらしゅんがく) は、小楠の理論を高く評価し、福井藩の藩政改革のために政治顧問として招いています。



 さらに春嶽の推薦で幕政改革にもかかわり、明治維新の新政府では参与として政権の中枢に入ることができました。



 特に進歩的なことは 「通商殖産」 を主張したことです。



 外国と商業取引をさかんにし、政府の官営模範工場や直営事業場を中心に、近代産業を育成しようとしたのです。

 また、好んでいたわけではありませんが、キリスト教も生き方の道標の一つとして認めていました。



 しかし、尊王攘夷派からは恨まれることになりました。

 共和制を主張して天皇制を否定し、攘夷派が最も嫌う外国との付き合いを推進しようとしたからと考えられます。



 1869年、小楠は京都の路上で暗殺されます。

 相手は奈良の十津川郷士ら6名で、駕篭から出て応戦しましたが、首をはねられました。



 61年の生涯でした。



 賛否両論はあってもまちがいなく言えることは、幕末の志士たちに多大な影響を及ぼし、新しい時代をつくる原動力の一つになったということです。



 戦争は最大の人権侵害です。

 罪もない人々を、次々に殺害していくからですね。



 戦争の撲滅を訴えて、世界平和を願うという小楠の意見は、全国の多くの人々の共感を得ることができるのではないでしょうか。
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