7 大塩平八郎 (1793~1837)




~一般民衆の立場に立ち幕府権力と戦った大坂の陽明学者~




 「大塩平八郎の乱」 という事件は、中学校や高校の教科書でもおなじみです。


 半日で鎮圧されたという記述も、多くの教科書や資料集等で採用されています。




 でも、この 「乱」 と 「鎮圧」 という言葉に違和感を覚えるのは僕だけでしょうか。




 幕府の立場から庶民を見下した、上から目線の言葉になっていないでしょうか。




 国民の立場からこの事件を見れば、 「一揆」 または 「解放戦争」 という言葉で表現することもできるのではないかと思います。




 大塩平八郎は大坂町奉行所の与力という役人でした。

 役職引退後は、洗心洞という私塾で陽明学を教えていました。




 陽明学は儒学の一派ですが、特に実行を重んじることに特色がある学問です。

 門弟は、奉行所の役人や近郊の富農が中心となっていました。




 このような中で天保の飢饉 (てんぽうのききん) がおこり、大坂の町はこの世の地獄と化したのでした。


 武士と一部の豪商たちだけ裕福で、多くの一般民衆は、飢餓の嵐に襲われたのです。




 背景には、大坂の蔵米を江戸に廻米し、幕府のごきげんとりをやっていたという、「庶民置き去りの政策」 という事実がありました。



 平八郎は息子の町与力、格之助を通して大坂の東町奉行に、蔵米を大坂の民衆のために使用するよう意見を申し出ています。



 しかし、「口出しをするな」 といった冷たい感覚で断られました。

 このときの大坂東町奉行は跡部良弼 (あとべよしすけ) といいます。



 天保の改革で有名な水野忠邦の弟にあたる人物ですね。



 平八郎の次の手は、豪商からの借金です。



 鴻池善右衛門 (こうのいけぜんえもん) にこのことを申し出ましたが、またもや跡部良弼の 「口出しをするな」 の一言で断られてしまいました。



 しかし幕府の無策で、大坂の一般庶民の困窮は目に余る状態になり、我慢も限界に達していたのです。



 ここに至って、平八郎は決起を決意します。



 決起の計画を立てながら、本屋の河内屋を呼んで、大量の自分の蔵書を処分しました。

 民衆には札を渡し、その札を河内屋へもっていけば、現金と交換できるようにしたのです。



 たくさんの民衆が喜んだのは言うまでもありません。



 ところが、この計画は事前に奉行所に漏れてしまいます。

 やむをえず、直ちに打って出ることになりました。



 1837年、2月19日の未明です。

 平八郎の門弟や農民ら300人余が、手製の大砲を引いて進撃しました。



 しかし、武力の差は歴然としています。



 大坂の町の約5分の1が灰になりながらも、わずか半日で強力な幕府軍の前に敗れ去ることになりました。



 平八郎は自刃して亡くなりました。



 元の役人の蜂起に、幕府はよほどショックを受けたのでしょうか。



 平八郎の死後も、彼の死体に対して執拗な攻撃を加えます。

 遺体を塩詰めにし、天下の重罪人として引き回し、磔 (はりつけ) にしました。



 数十回も槍で刺された死体は、もちろん反応はしませんが、ズタズタになりました。



 あげくのはてに、棺桶にいれたときも、腰から上が見えるようにし、人々の目にさらしたのでした。



 死人を相手にこれでもか、これでもか、という攻撃を繰り返していますね。



 しかし、平八郎の解放戦争はたちまち全国に知れわたります。



 越後の柏崎では、生田万 (いくたよろず) が一揆をおこし、摂津でも、佐渡でも、江戸でも次々と一揆や打ちこわしがおこり、全国に広がっていきました。




 それから30年、江戸幕府も大坂東町奉行も、この世から消え去ってなくなりました。



 国民の意思はどちらに賛成であったかは明白ですね。



 国民の本当の代表者は、いったい誰だったのでしょうか。
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