4 天草四郎 (1621~1637)




~信仰の自由のために命をかけて戦った熊本の少年~




 蓑踊り (みのおどり) という踊りをご存知でしょうか。


 これは、 「踊り」 などではなく、残虐な 「拷問・処刑法」 です。



 年貢を納められなかった百姓の手をしばり、ワラでできた蓑(みの) を着せて、生きたまま火をつけるものです。

 あまりの熱さに跳びあがってもがき苦しむ様子を、支配者の武士たちが楽しみながら見ていたのです。




 江戸時代初期、九州の天草や島原地方で、キリシタンや年貢を納められなかった百姓たちは、さまざまな迫害、弾圧が容赦なく加えられていました。



 キリシタンの人々は、活火山雲仙の地獄池に生きたまま突き落とされたり、火あぶりの刑で残酷に処刑されました。

 女性は水牢に死ぬまで入れられました。



 生きたまま海に投げ込まれたり、逆さ吊りにされた者もいました。

 これらのあまりにも激しい迫害のため、首を吊ったり、餓死する人も多数出たのでした。



 宣教師も次々に海外へ追放され、キリスト教徒は仏教への改宗を強制されました。


 天災と凶作が相次ぐ中、領民たちの我慢も限界に達していました。




 このような中で、百姓の人間らしい生活と、キリシタンの信仰の自由のために、リーダーとして立ち上がったのが天草四郎です。




 本名は益田四郎時貞といい、現在の熊本県宇土市で生まれました。

 父はキリシタン大名として知られる小西行長の元家臣です。




 四郎は生まれながらにしてカリスマ性があり、大変聡明で、慈悲深く、容姿端麗だったといわれています。

 幼少期から学問に親しみ、すぐれた教養もありました。




 1637年、日本史上有名な、「天草・島原一揆」 がおこります。

 古くから 「島原の乱」 ともよばれ、現在は両方の言葉がさまざまな本で使用されています。




 僕は自分が生徒のときは後者で習いましたが、今はあえて前者の言葉を使います。




 理由は 「一揆」 という場合は百姓をはじめとする一般民衆の立場から見たニュアンスが強く、「乱」 という場合は、どちらかといえば支配者の立場から見たニュアンスが強くなると思うからです。




 当時の領主は、天草が寺沢広高、島原が松倉勝家でした。




 なぜ、こんなむごい拷問や処刑が行われたのでしょうか。




 もちろん、領主たちとその部下の武士たちの性格もあるでしょう。




 しかし、ここで見逃せないのが、3代将軍徳川家光をトップとする江戸幕府の圧力です。

 幕府は諸藩に対して本来より多い石高を設定していたのです。




 天草も島原も実際の石高の2倍前後の石高を設定されていたため、本来よりも年貢が非常に高くなります。

 当然その負担は百姓に来ることになり、無理な取りたてが横行することになっていました。




 キリスト教の禁止も幕府の命令によるものですね。

 天草四郎は一揆軍の精神的支柱となり、3万7千人で幕府連合軍12万人と勇敢に戦いました。




 しかし、力の差は歴然です。




 強権を誇る幕府軍は、8千人の死傷者を出しながらも、一揆軍を全滅させました。

 女性や子どもも含めて、3万7千人が全員殺されたのです。




 これは、江戸幕府という名の独裁者による 「人権侵害の嵐」 と表現することができます。




 このとき、四郎はわずか16・7歳だったといわれます。


 少年ですね。




 日本で初めて農民が武士に戦いを挑んだ、日本史上最大の農民一揆であり宗教一揆だったのです。


 こうして、自由と平等を求めた天草・島原一揆は終わりました。




 このとき確かに一揆軍は敗れましたが、江戸幕府はその後300年とたたずに滅亡し、この世からなくなりました。




 しかし、キリスト教はその後も江戸時代を通して、隠れながらもなくならず、現在までたくさんの信仰が続き、さらに発展しています。



 たとえ肉体は滅ぼされても、心までは滅ぼされなかったことの何よりの証拠です。




 これはいったい、なぜなのでしょうか。

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