2 佐倉宗吾 (1605~1653)




~将軍に直訴し民衆とともに生きた千葉の義民~




 義民とは、身を捨てて多くの人々のためにつくす人のことです。


 特に江戸時代の農民の中で、百姓一揆などで民衆を救い、自分が犠牲になった人をさすときに使われることが多いですね。




 全国にはこの義民の話がたくさん伝えられており、現在でも地元の人々を中心に多くの人から尊敬されている人物がたくさんいます。



 千葉県の木内惣五郎 (きうちそうごろう) もその一人で、通称 「佐倉宗吾」 の名で広く知られています。




 政治権力は国民のためにあるべきもではないでしょうか。


 しかし、江戸時代の幕府や藩の中には、はたして誰のためにあったのか疑問に思えるような例がよくあります。




 徳川家康によってつくられた江戸幕府の力は強大です。




 大名を絶対管理下におき、頻繁に移封をかさね、後には参勤交代を強い、不備があれば直ちに改易、つまりクビにするなど、強権をほしいままに、専制的に君臨していました。




 さらに幕府は、諸国が余力を蓄えることを好まず、諸役を負わすなどして国力が余りつかないようにしました。

 各藩主も百姓に対して生かさず、殺さず、常に重い負担を強い、土地に釘づけにすることが珍しくなくなっていました。




 当時の国民人口の80%以上は百姓です。

 年貢の率も高率で、佐倉宗吾が住む佐倉藩の場合は、村によって相違があるものの、5割から8割でした。




 これでは誰のための政治なのかわかりませんね。




 1653年、千葉県の佐倉藩では数年来の凶作と、重税の取り立てに困り果てていました。

 年貢米の増税に加えて、天秤税、野菜税、味噌税、醤油税などまで設け、過酷な取り立てをされました。




 農民の中には先祖伝来の田畑山林を売り払い、あるいは一家離散、道端で餓死する者さえ出る始末でした。



 こうなると、もう我慢の限界でしょう。




 佐倉藩の代官は、農民たちの家の財産までも搾り取るように重税を課し、年貢を納められない者は滞納と称して処罰しました。




 佐倉宗吾は印旛郡公津村 (現在の成田市) の名主です。

 農民を代表する村役人の一人ですね。




 この状態を黙って見ているわけにはいきませんでした。

 他の村の領主たちとも話し合って、代官所へ処罰の中止を願い出ましたが却下されました。




 藩主堀田家の江戸の上屋敷に嘆願書を差し出しましたが、これも却下。




 さらに将軍の後見職の保科正之 (ほしなまさゆき) の耳に届くよう、久世大和の守の籠先にも訴えましたがこれも却下されました。




 最後の手段です。

 


 宗吾は4代将軍徳川家綱への単身直訴を決意します。

 同年12月20日、将軍の行列が上野の寛永寺に参拝する途中の籠先に飛び出しました。




 「お願いで御座います、お願いで御座います」




 訴状は受け取られましたが、直ちに宗吾は取り押さえられました。


 参拝後、家綱は訴状の内容を確認し、直ちに佐倉藩の状況を調査報告するよう命じました。




 そして、深刻な不作は確認され、3年間、年貢の減免が行われたのです。




 訴えは認められたのですね。




 農民たちは宗吾の命がけの勇気ある行動によって救われました。


 しかし、捕えられた宗吾は佐倉藩主堀田正信に引き渡されました。




 面目を失った正信は宗吾を磔 (はりつけ) にして処刑しました。



 享年42歳。




 江戸時代の百姓一揆は3,000件以上で、一揆とまでいかなくてもこれに近い状況がまだ多数あります。




 戦国時代のような、権力を奪い合うといった戦乱はあまりなくとも、一般庶民中心の命をかけた、 「自由のための戦い」 の数は100や200ではありません。




 けた違いの4けたです。




 日本の歴史上、義民はもっと多くの人々に注目されてもよいのではないでしょうか。

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