5 司馬遷 (前145年頃~前86年)




~時の支配者にこびず人間を大切にした中国歴史の父~




 時の支配者とは前漢の最盛期を築いたことで有名な武帝です。


司馬遷 (しばせん) はこの時代を生きました。



 伝説の時代から、武帝時代までの紀元前の中国史を記した大作 「史記」 は、司馬遷が生涯をかけて完成させた不朽の名作として知られています。



 司馬遷は武帝のもとで、その父、司馬談 (しばだん) の太史令 (たいしれい) という歴史を記録する仕事を、後に受け継ぐことになります。



 しかし20歳のとき、司馬遷はそれまでの歴史の記録そのものに疑問をいだき、悩みます。



 「歴史とは、天下を治めた偉い人の名を後世に残すためだけのものなのか。

 いや、世の中には地位はなくとも郭解 (かくかい) のような立派な男もいるではないか。」



 郭解という人物はわかりやすくいえば当時のやくざ者です。



 確かに地位・名誉はありませんが、身近な人物どうしのトラブルがおきたとき、家柄や面目に流されず、公平に判断して解決できるような人物でした。



 郭解を知る人々からは、人徳者として慕われていましたが、「やくざ者」 という理由だけで、彼を軽蔑していた人が多数いたことも事実です。



 司馬遷は彼の人徳を認め、後に書きあげた中国史の大作 「史記」 に郭解を 「歴史上の人物」 として堂々と登場させています。



 武帝は前漢を代表する強力な皇帝で、周辺の諸国とも積極的に戦いました。



 若いころは、臣下たちの意見もよく聞いて良い政治を行おうと努力しましたが、晩年は、自分への批判などは一切許さない典型的な独裁者になっていました。



 自己顕示欲も強く、封禅の儀式 (ほうぜんのぎしき) も行っています。



 封禅の儀式というのは、中国で天下太平をもたらした聖天子のみができる儀式です。



 しかし、現実はかなり違うと司馬遷は見ていました。

 これは呪術 (じゅじゅつ) 好きの武帝の自己満足の儀式である、とバッサリ切り捨てています。



 この武帝から、司馬遷はとんでもない宣告を受けます。



 死刑を言いわたされたのでした。

 李陵 (りりょう) という人物をかばったことが武帝の逆鱗 (げきりん) に触れ、皇帝批判ということにされてしまったのです。



 このとき司馬遷は、まだ史記を完成させておらず、どうしても死ぬわけにはいきませんでした。



 こうなると死刑を受けるか、死刑よりももっと不名誉な刑である 「宮刑」 (きゅうけい) を受けるしかなく、過酷な二者択一に迫られたのでした。



 宮刑というのは男根を根元からバッサリ切り落とされる刑で、まさに恥をさらして生き伸びるようなものでした。



 男性であっても男性でなくなり、強い苦しみと多くの差別が待ちうけています。

 心身ともに大きな傷を負うでしょう。



 普通ならとても耐えられそうもありませんね。

 一例をあげれば、宮刑を受けた者は不孝者として、生まれ故郷の墓参りさえ許されませんでした。



 司馬遷は牢の中でさんざん悩み苦しんだ末、この宮刑を受ける決意をしました。

 そして苦しみと差別を乗り越えて、後に歴史書 「史記」 を完成させたのでした。



 僕はこの司馬遷の生き方に大いに共感できる部分があります。



 まず、武帝からの死刑という名の支配に屈しなかったこと。


 次に宮刑という名の暴力と、不孝者という名の差別を乗り越えたことです。



 そして武帝の気に入る歴史ではなく、多くの人間を大切にし、事実に基づいて歴史書を執筆しました。


 王や皇帝の記録だけでなく、本当に人々の心に残ってほしい歴史を書きあげたのです。




 この意味で、司馬遷は自分の意志を貫き、生きることと、著作の自由を獲得した人物といえるでしょう。

 
 記述内容も平等の扱いで、権力や地位で差をつけず、真実の歴史を書き続けました。



 2000年以上たった今でも、彼の生き方には大いに考えさせられものがあり、世界の人々の心に長く生き続けているのではないでしょうか。
スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://eichi862.blog.fc2.com/tb.php/7-8692a941