6 高山右近 (1552~1615) 




~信仰の自由のために領地と財産を捨てた戦国時代の武士~




 高山右近(うこん)は戦国時代を代表するキリシタン大名です。

 フランシスコ・ザビエルで有名なイエズス会に入会して洗礼を受けたのは、彼が12歳のときでした。



 武士としては歴戦の名手で、数々の合戦で活躍し、茶道の名手という文化人でもありました。



 さらに僕が注目したいことは、 「信仰の自由」 のために身の危険を乗り越えて闘ったという事実です。

基本的人権の視点から見れば、彼こそ長い日本の歴史上、指折りの傑出した人物でもあるのではないでしょうか。
 



 織田信長に仕えていたころは4万石を与えられ、信長軍に高山右近ありと指揮官としての名声を得ていました。



 本能寺の変の後、羽柴秀吉 (後の豊臣秀吉) の有名な 「中国大返し」 に同行し、天王山の戦いとしても知られる山崎の戦いでは、明智光秀を破りました。



 秀吉軍の一番手に任じられ、誰もが認める戦上手でした。

 さらに秀吉に従って紀州征伐、四国征伐にも参加し、その武勲によって明石6万石の城主にまでなりました。



 信長はキリスト教には寛大だったので、右近は布教活動も積極的にできました。

 その人徳の影響もあって次々に入信者も増えました。



 小西行長、蒲生氏郷(がもううじさと)、黒田官兵衛などは特によく知られています。



 洗礼まではしませんでしたが、加賀100万石で有名な前田利家も右近のよき理解者でした。

 また、千利休のすぐれた弟子の一人として茶道も広めています。




 文武両道の人格者だったのですね。




 ところが1587年、秀吉は 「バテレン追放令」 を出します。

 バテレンとは宣教師のことですね。




 つまり、キリスト教禁止令です。




 天下を統一して全国を支配しようとする秀吉にとって、キリスト教は邪魔と判断したのです。




 これに対して右近は


 「棄教するくらいなら大名の地位を捨てたほうがいい」



 と宣言しました。




 秀吉は激怒したことでしょう。

 領地没収の上、追放という処分になりました。




 やむをえず淡路島や小豆島に身を潜めていましたが、前田利家が救いの手を差しのべます。



 利家のもとで小田原の北条攻め、関ヶ原の戦いで武士としての手腕を発揮することができました。

 その後、前田家の金沢では 「南蛮寺」 を建てることができました。




 南蛮寺とはつまり 「教会」 のことですね。




 黒田官兵衛はすぐ棄教しましたが、高山右近はあくまで信仰を貫こうとしたのです。


 命がけの勇気ある行動で、なかなかできることではないと思います。




 迫害はこれだけでは終わりません。


 1614年、江戸幕府の将軍として権力を握った徳川家康は、国外追放を命じてきたのです。




 右近はついに日本にいられなくなりました。




 信仰の自由を求めて、フィリピンのマニラに移住することを決意します。


 同年10月、妻のジュリアをはじめ、100名を超える家臣たちが同行しました。




 このときの右近の年齢はすでに60歳を過ぎていましたが、純粋な信仰心はどんな権力にも負けないことを物語っているできごとですね。




 長崎から43日の苦難の船旅を経てマニラについた一行は、礼砲で迎えられ、市民から大歓迎を受けて賓客としてもてなされました。



 長い航海と南国の酷暑で熱病にかかり、長生きはできませんでしたが、右近はそこであくまでキリスト教徒として一生を終えることができました。




 人間なら本来、信仰は個人の自由でしょう。




 その自由のために闘った高山右近は、苦労はしたけれど納得のいく人生を全うすることができたのではないでしょうか。




 現代に生きる僕たちも、さまざまな集団に自分の自由意思で所属しています。


 しかし、その所属がかえって本来の人間としての自由を束縛し、生きづらいものになっていることはありませんか。




 「常識」 という名の 「半強制」 や、「協調性」 という名の 「隷属」 を要求してくる集団があります。




 場合によっては勇気を出して、その集団と縁を切ることによって、本当の自分になれる例もあるのではないかと僕は考えています。
 
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