3 最 澄 (767~822) 




~身分にとらわれず一人一人に目を向けた平安時代の仏教改革者~




 伝教大師 (でんきょうだいし) というおくり名でも知られる平安初期の名僧ですね。


 僕が最澄 (さいちょう) に注目している理由は、




 「人は身分に関係なく一人一人が精神的に救われる」


 ということが彼の考え方の基本にあるからです。




 時の桓武天皇 (かんむてんのう) に対してもこう発言しています。


 「私はかねがね、学問だけの南都六宗 (なんとろくしゅう) の教えに満足できませんでした」




 当時は奈良の都 「平城京」 で南都六宗と呼ばれる六つの宗派が主流でした。


 それを大幅に改革して仏教を民衆のものにしたのが最澄だと思います。




 767年、最澄は近江の国 (現在の滋賀県) の琵琶湖のほとりで生まれました。

 少年時代の名前は広野 (ひろの) といいました。




 14歳で出家し、19歳の時から比叡山 (ひえいざん) で12年間にわたる山林修行を積んでいます。

 多くの悩みと厳しい修行の中で、最澄は唐の鑑真 (がんじん) が日本に伝えていた天台宗に注目したのでした。




 「仏教の根本は法華経 (ほけきょう) にあると私は思うのです。

 その法華経の研究が最も進んでいるのが唐の天台山です」




 こうして804年、留学僧として最澄は唐に渡りました。

 同年、後の弘法大師という名で有名になった空海も唐に渡っていることも、よく知られている事実ですね。




 帰国後、最澄の闘いは本格的に始まります。

 南都六宗の僧たちと対立し、激しい攻撃を受けることになりました。




 最澄以前の日本の仏教は、鎮護国家の思想の下に、国家権力により厳重に統制されていました。




 出家の儀式である得度 (とくど) も管理されており、戒律を授ける儀式を行うために設けた特定の壇をもつ戒壇院 (かいだんいん) も南都 (奈良) の仏教が独占していました。




 彼らにとって、新しい戒壇院を設けようとする最澄は、既得権益を侵害する邪魔ものであり、 「排除の差別」 の対象になる人物でした。




 最澄はこういった旧勢力と闘いながら中部や関東、九州地方にも出向き、天台の教えを広めました。




 出向いた各地で 「法華経」 を写経し、これを納めた宝塔を建立したり、旅人の難儀を救うための 「無料宿泊所」 を設けました。



 彼の活動は明らかに民衆のためのものであり、民衆の立場に立って布教活動をしたのです。



 天台宗の信者であろうとなかろうと、その生き方に共感できるのは僕だけではないと思います。



 桓武天皇は最澄の理解者でした。



 南都六宗の中には、行基のように民衆の苦しみとともに生きた純粋な僧もいましたが、その多くは権力者たちにとり入って自分の出世を最優先し、中には政治の分野に介入する僧もあらわれました。




 玄肪 (げんぼう) や道鏡 (どうきょう) などはその典型的な例ですね。

 桓武天皇が平城京を捨て、長岡京や平安京に遷都した理由の中の一つが、この仏教の政治介入でしょう。




 信仰は自由で、仏の前ではみんなが平等です。




 誰もが国の宝になることを願ったのが最澄の生き方です。

 彼は旧勢力と闘いながらも、その教えはしだいに多くの人々に受け入れられていきました。




 その証拠に、次の鎌倉時代になると天台宗からは法然、親鸞、日蓮、一遍などのすぐれた僧が次々に巣立ち、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、時宗などの 「鎌倉新仏教」 が生み出されていきました。




 それらは現在も日本中の多くの人々の心の支えになり、そしてこれから将来も一人一人、より多くの人々の共感を得ていくのではないでしょうか。
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