2 藤原光明子 (701~760)

 



~病気や貧しい人々に寄り添い慈悲の心で生きた皇后~





 僕があえて彼女のことを 「光明皇后」 と書かないのはなぜでしょうか。




 それは、ファーストレディーでありながら、貴賤貧富を問わず多くの国民とともに生きようとした女性だと思うからです。

 夫を純粋に愛し、シャカの教えを大切にし、被差別の立場にも立つことができる人間味のある人だったのではないでしょうか。




 だから、僕は皇后よりも国民的な目線で、本名である 「光明子」 と呼ぶことにします。




 701年、光明子は藤原不比等 (ふひと) の三女として生まれます。

 大化の改新で有名な中臣鎌足の孫といった方が分かりやすいかもしれません。




 幼いころから聡明であったといわれています。

 16歳で 首皇子 (おびとのおうじ) の妃になりました。




 後の聖武天皇ですね。




 そして、権力志向の父、不比等をはじめとする藤原一族の力で、 「皇后」 に立てられました。


 このことは、本人が希望したわけでもなく、一族に利用されたことは明白です。




 その割には夫婦仲が良かったのではないでしょうか。


 光明子は夫を思う純情を歌に表していますし、聖武天皇の遺品を保存した正倉院の願文には 




 「夫の好まれた品々を見ると、在りし日を思い泣き崩れてしまう」


 という意味の言葉か書かれています。




 夫婦愛がにじみ出る事実はいくつもありますが、権力を傘にして威張ったり、人を見下しておとしめたりするような事実は見当たりません。




 僕が最も注目していることは、光明子は老人や孤児を養う 「悲田院」 (ひでんいん)、病人に薬を与える 「施薬院」   (せやくいん)、病人の世話をする 「療病院」 などを作ったことです。




 すべて無料で利用でき、しかも彼女も自ら病人の世話をしに行きました。


 伝説ではありますが、薬の風呂を作り、自ら1,000人の垢を洗い、ハンセン病患者の膿を吸い取ったとまで伝えられます。




 これは史実でないにしても、光明子がいかに多くの人々に慕われていたかということはいえるでしょう。

 彼女の行動にはさまざまな解釈や意見があります。




 たとえば中国の悪女として知られる則天武后 (そくてんぶこう) に自らをなぞらえていたとか、剛胆な性格であった、と指摘する方々もいらっしゃいます。




 ただ、経済的な感覚は優れていたとは思えません。


 有名な東大寺や国分寺、国分尼寺の建設を聖武天皇に勧めたのは光明子です。




 敬虔な信仰心と高い理想、広く国民を思う気持ちがそうさせたのですが、このことによって国家財政が破たんしていったことも事実です。



 奈良に 「法華滅罪寺」 (ほっけめつざいじ) という名の寺院があります。


 これは光明子の館をお寺にしたものです。




 ここはもともと平城京の主であり権力者である父、藤原不比等の館でした。




 別な言い方をすれば 「藤原権力の拠点」 に当たる重要な場所になるわけです。

 光明子がこの藤原氏にとってかけがえのない館を 「滅罪」 の場所にしたのはなぜなのでしょうか。





 光明子の行動や性格には、まだわからないことがたくさんあります。




 ただ、まちがいなく言えることは、奈良時代の皇族の中では、民衆に最も思いを寄せ、民衆に寄り添おうとした人であったということです。




 だから1,000年以上たった今でも多くの人々にその人柄が語り継がれ、これから将来も語り継がれていくのではないでしょうか。
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