1 行 基 (668~749)




~身分差別を乗り越えて民衆とともに生きた奈良時代の僧~




 奈良時代の僧侶の方々は、後の時代とは大きく異なっている点があります。


 それは、ほとんどお寺の中にいたということです。




 仏教そのものが学問的で、朝廷という国家権力によって厳重に管理されていました。

 彼らのほとんどは寺院から出ず、寺院の中でお経をとなえ、朝廷における自分の地位の出世のことばかり考えていました。




 だから一般民衆とは別世界の状態であったといえます。




 身分差別は支配のための道具であったわけです。




 このような中で民衆の苦しみとともに生きた僧が行基です。

 彼は積極的に寺を出て、仏教を民衆に説いてまわりました。




 当時は律令政治における税制をはじめとする重い負担で、多くの農民が苦しんでいました。




 野たれ死にする者や逃亡者も後を絶たず、優雅な生活を謳歌(おうか)できたのはほんの一握りの皇族と貴族たちだったのです。




 奈良時代はこうした一部の豊かな人々と大多数の貧しい農民という構造になっていました。




 僕が行基に注目しているのはこの 「民衆の立場に立って生きた」 という点です。

 多くの人々とともに生きる課題を共有しているからこそできることですね。




 668年、行基は現在の大阪府堺市で生まれ、15歳のとき出家しています。

 山林に入って独自の修行も行いました。




 37歳のとき山を下りて民間布教を開始しています。

 このころは大宝律令が完成し、710年には平城京に遷都されました。




 奈良時代の始まりですね。

 このころの国民の大多数である農民たちは、 「奴隷」 とはよびませんが、それに近い状態だったといえます。




 重税に次ぐ重税、過酷な肉体労働を強制され、過労死や流浪者、逃亡者が頻発していました。


 当時の政治はいったいだれのためにあったのでしょうか。




 大多数の民衆を犠牲にして、一部の支配者たちのためにあったといっても過言ではないでしょう。


 行基は納税や労役のために都を往復しなければならない農民のために 「布施屋」 とよばれる寝泊まり所をつくりました。




さらに、川を渡るための橋をかけたり、船を設置したりと、人々のために尽くしました。




 民衆が

 『わしらみたいな貧しい者でも救われるのでしょうか?』



 と問いました。



行基は

 「み仏の教えに差別はありません。



 人間だけでなく、み仏はこの名もない雑草にも救いの心をお持ちなのです。」

 と答えました。




 行基の説法には、少ない時でも1,000人、多い時には10,000人も集まりました。




 藤原不比等 (ふひと) をはじめとする朝廷の役人たちは、民衆が朝廷のいうことを聞かなくなるのではないかという危機意識を持ち、行基の布教を禁止しました。




 権力による弾圧ですね。




 自分たちのことしか考えていない支配者のしそうなことです。




 それでも

 「都がだめなら山の中でもムラででも布教は続けるんだ。」



 と言って圧力に屈しませんでした。



 後に、時の聖武天皇は行基を認め、有名な東大寺の大仏作りに彼の協力を依頼し、大僧正に任命しました。




 この大仏が有名な 「奈良の大仏」 ですね。


 しかし、この大事業は民衆に強制するものではなく、民衆の生活をこわしてまでもやってくれというものではありませんでした。




 行基の建言により 




 「無理な労働をさせないように、けが人を出さないように」 


 ということを重視して行われたのです。





 常に民衆の立場に立ち、民衆の目線で活動した奈良時代の数少ない僧です。




 僕は、行基こそ古代における貴重な人権感覚の持ち主で、日本の歴史上特筆するべきすぐれた人物ではないかと考えています。
スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://eichi862.blog.fc2.com/tb.php/63-95034a54