11 周恩来 (1896年~1976年)




~侵略からの自由と平和をめざして戦った中国の首相~




 中国の首相まで務めた周恩来が、少年時代、自分の家で育ててもらえなかったことをご存知でしょうか。



 実は、幼いころから伯父の家に預けられて育ったのです。

 12歳のときには寒い東北地方に住む別の叔父の家に移りました。



 こうして親戚の家で育てられるうちに、幼い彼は、知らず知らずのうちに、周囲の人々にかわいがられる方法が身についていったのでしょうか。



 伯母に大変気に入られて、外国人の家庭教師を雇ってもらい、ヨーロッパの学問を学ぶことができました。

 日本やヨーロッパで留学生活を送り、1924年の第一次国共合作の年、フランスから帰ってきたばかりでした。



 中国国民党の士官学校では、校長の蒋介石のもとで政治部副主任として勤めています。

 1934年、国民党からの攻撃をかわすため、共産党の2年間にわたる 「長征」 が行われました。



 この途中、四川省の小都市で 「八・一宣言」 の原稿をつくりました。



 「日本と戦うため、中国の全国民に告げる。

 日本の中国侵略はますます激しくなってきた。



 このままでは国が滅びてしまう。

 今すぐ中国人どうしの戦いをやめ、すべての力を集め、日本から国を守る戦いに立ち上がろうではないか」



 日本からの民族差別に負けないように、中国人の自由と平和のために、力を合わせるように呼びかけています。


 明らかに差別者は日本の帝国主義者たちですね。



 1936年、張学良 (ちょうがくりょう) が蒋介石を監禁する西安事件がおこりました。

 数日後、張学良に招かれて、周恩来が蒋介石を説得するために西安へやってきました。



 「再び力を合わせて日本軍と戦いましょう」

 この説得により 「抗日民族統一戦線」 が組まれ、第二次国共合作が実現したのです。



 中国共産党は中国国民党に大きくゆずり、中華ソビエト共和国臨時政府を解消し、共産党の軍隊である紅軍 (こうぐん) を、国民党軍の指揮下におきました。
 


 1937年、日中戦争が始まりました。

 日本の侵略に抵抗できたのは、周恩来の説得が大きな役目を果たしているのではないでしょうか。



 戦後、周恩来は首相になり、インドのネルー首相と会談して 「平和五原則」 を発表しました。


 「インドと中国はどんな同盟にも加わらず、平和五原則を守って友好関係を続けていくことを約束しました」



 この会談は世界中に大きな影響を与え、後の諸条約、諸宣言にも反映されることになります。

 また、1955年の 「アジア・アフリカ会議」 で参加諸国の意見が対立したとき



 「中国には昔から求同存異 (きゅうどうぞんい) という言葉があります。

 一致点を求めて異なる意見はしまっておくという意味です。



 どうか求同存異でアジア・アフリカ人による初めてのこの会議を成功させようではありませんか」

 と発言しています。



 反帝国主義、反植民地主義、平和共存をめざすこと、アジアとアフリカの連帯などを中心とする 「バンドン10原則」 を採択しました。



 僕はこれこそ、「アジアとアフリカの人権宣言」 だと考えています。

 この大事な会議に、なぜ日本が参加していないのでしょうか。



 理由はここに書くまでもありませんね。



 1976年、周恩来が亡くなると、死を悼むたくさんの人々が、天安門広場の記念碑に花輪や詩を捧げました。



 しかし、いわゆる四人組といわれた張春橋、姚(よう)文元、王洪文、江青ら文革路線の権力者の人々は、これは自分たちへの批判だと解釈して、すべてを撤去させてしまいました。



 そのため、民衆の怒りが爆発しておこったのが 「天安門事件」 です。


 周恩来は国民から好かれていたのですね。




 人種や民族を越えた、広い視野をもったすぐれた人権感覚の持ち主だったのではないでしょうか。


 外国からの差別に負けなかった彼の生き方には学ぶところがたくさんあると思います。




 資本主義とか社会主義とかの主義・主張の問題ではなく、その生き方に中国史上指折りの共感できる人物だと僕は考えています。
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