6 魯 迅 (1881年~1936年)




~ペンで革命運動にかけた中国近代文学の父~




 魯迅 (ろじん) の本名は周樹人 (しゅうじゅじん) といいます。
 


 浙江省 (せっこうしょう) で生まれ、南京の学校で4年間学んだ後、日本に留学しました。

 医学を志して現在の東北大学医学部で学んでいたのです。



 ところが、授業で日露戦争のスライドを見て大きなショックを受けます。

 それはロシア人のスパイとしてつかまった中国人が、処刑されようとしている写真でした。



 驚いたことに、それを見物しているのが中国人で、みんな平気な顔をして見物していたのです。



 「私は医者になる勉強をしていましたが、やめました。

 今の中国人が必要なのは、体の治療じゃなく心の治療だ」



 魯迅は知人にこう述べ、さらに次にように語りました。



 「田畑を耕すように、私は人の心を耕そう。

 いつの日か、豊かな革命の実が実るのを願って」



 辛亥革命 (しんがいかくめい) にペンで参加することを決めたのです。


 口語体で文章を書こうという 「白話運動」 (はくわうんどう) に積極的に参加しました。



 まさに文学革命ですね。



 しかし革命は起こったものの、袁世凱 (えんせいがい) の独裁や軍閥の争いで、不安定な状態が延々と続いていました。

 1909年に帰国した魯迅は、小説 「狂人日記」 を陳独秀の雑誌 「新青年」 に発表しました。



 儒教の教えにしばられた、それまでの中国の家族制度を批判したものです。


 話し言葉で書かれてわかりやすく、当時の青年たちに競って読まれました。



 また1912年には、貧しい農民を主人公にして、そのころの中国の社会を風刺した 「阿Q正伝」 を発表しました。

 これらの作品は、革命を志す人々に大きな影響を与えています。



 古い支配や差別との魯迅の闘いは、こうして小説という形で始まりました。



 彼は中学校や師範学校の教師をしながら、文学に取り組んでいたのです。

 1920年から26年まで北京大学と北京女子師範大学の講師を務めています。



 この26年には 「3・18事件」 というショッキングな事件が起きています。

 北京女子師範大学の教え子を含む47人が政府の軍隊に射殺されたのです。



 その後北京を離れ、厦門 (あもい) 大学の教授になりましたが半年後に辞職。

 広東に移って、ある女性と一緒に暮らし始めました。



 名を許広平 (きょこうへい) といいます。

 北京からずっと追い続けてきた教え子だそうです。



 中山大学の教授になりましたが、蒋介石 (しょうかいせき) の反共クーデターをきっかけにした反共主義の高まりに抗議して辞職し、今度は上海 (シャンハイ) に移りました。



 その後は教職に就かず、左翼作家連盟を結成して、文学者として政府を痛烈に批判するようになりました。



 1929年には、愛する許広平との間に子どもが誕生しました。

 波乱の人生の中での束の間の安らぎでしたが、その7年後、魯迅は56歳で病没しました。



 教え子とのロマンスは、2人の往復書簡をまとめた 「両地書」 (りょうちしょ) に記録され、長い間、中国の人々に語り継がれています。



 魯迅といえば中国を代表する文学者。

 文学的にも世界史的にも、これはまちがいのない事実でしょう。




 同時に僕は、中国史を代表する人権感覚の持ち主だと考えています。


 人間としての自由な生き方をこよなく愛し、文学を通したペンによる中国革命にかけた人物が魯迅だと思います。



 古い中国の身分差別や、日本の軍部をはじめとする外国からの民族差別と闘った魯迅の生き方には、学ぶところが多いと思います。



 彼の考え方の影響は、時代も国境も越えて大きく広がり、現在でも世界中のたくさんの人々の共感を得ているのではないでしょうか。
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