4 陳独秀 (1879年~1942年)




~民主主義を広め古い制度と闘った中国の思想家~




 陳独秀 (ちんどくしゅう) は、孫文が作った 「中国同盟会 」の会員で思想家です。



 辛亥革命にも参加し、日本の早稲田大学に留学していたこともあります。

 1915年に創刊された雑誌 「新青年」は話し言葉 (白話) でわかりやすく書かれた論文や小説を載せました。



 一般民衆の立場に立っているからこそできることですね。



 後に有名になった胡適 (こてき) や魯迅 (ろじん) などもこの新青年で作品を発表しています。

 欧米の思想も紹介されたりして 「文学革命」 ともいえる画期的な出来事でした。



 陳独秀はこう発言しました。



 「中国は今やその古い歴史におしつぶされて、身動きできなくなっているのです。

 私はこの古い中国と闘いますよ。



 新しい思想を若者に伝えるための雑誌をつくりましょう。

 新青年の読者から新しい中国を築く人が育ってほしい。



 今の中国では軍人や金持ちだけがいばっている。

 大多数の農民や労働者はまるで奴隷だ」



 このころの中国は、辛亥革命で清王朝を滅ぼしはしたものの、まだ安定した共和国になったとはいえず、軍閥をはじめとする軍事勢力が権力を得ようと、互いに争っていました。



 中でも袁世凱は最大の軍事力をもつ実力者で、中華民国の大総統の地位を事実上奪い、独裁者としての皇帝をめざしていました。



 第一次世界大戦がはじまると日本が中国侵略を図り、北京の袁世凱政権に 「21カ条の要求」 を突き付けてきました。

 袁世凱は一時的ではありますが、この21カ条の要求を認めています。




 中国国民のためではなく、自分の権力を日本につぶされないようにするためです。

 陳独秀はこのとき学者でもあった柏文蔚 (はくぶんうつ) という人とともに上海で活動していました。




 「北京の袁世凱は何を考えているんだ。

 日本のこんなむちゃな要求を認めるなんて。



 われわれ中国人はこのことを決して忘れることはないでしょう」



 事実、袁世凱がこの21カ条の要求を認めた日は 「国恥記念日」 として現在でも語り継がれているそうです。



 民族差別と植民地への第一歩を、国の権力者が認めたことになりますね。

 しかし、この袁世凱も帝政復活が失敗すると絶望し、心労と失意の中であっけなく病死してしまいました。



 これも、差別は 「する側」 が不幸になる典型的な例ですね。



 1921年、上海で中国共産党が結成されます。

 このとき若き日の毛沢東も参加していました。



 毛沢東は次のように提言しました。



 「中国共産党の党首には、ここにはいらっしゃらないが、陳独秀さんになってもらおう」



 こうして陳独秀はその人徳を認められて、中国の自由と平等のために共産党の党首に推薦されました。

 1924年、「第一次国共合作」 で孫文の中国国民党と手を組みます。



 孫文の考え方を尊重し、国民党大会に参加した以上、国民党の規則に従って安定した中華民国をめざしました。



 1925年に孫文が病死すると蒋介石 (しょうかいせき) と毛沢東が台頭してきます。



 中国国民党を継いだ蒋介石は、大金持ちや資本家と手を結び、共産党を排除して、孫文と陳独秀が成し遂げた第一次国共合作を破壊したのです。



 その後、満州事変や日中戦争という大事件に直面して第二次国共合作がなされますが、陳独秀は政治の表舞台とは距離を置いています。



 毛沢東の共産党にも批判的だったといわれています。



 彼は権力を握ることはしませんでしたが、著作などを通して思想家としての人権感覚がすぐれている人物だと思います。


 国民の立場に立ち、たくさんの人々に大きな影響を与えました。




 孫文の考えに最も近い共産党員の一人だったのではないでしょうか。




 国内や国外からの支配や差別と闘い、民主主義の大切さを訴え続けた、中国史上なくてはならない人物の一人だと僕は考えています。

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