13 ジェームス・カントリー (1896年頃)




~民族を超えて中国の革命運動を支えたイギリスの医師~




 「中国革命の父」 として、今でも多くの中国人から尊敬されている孫文。

 中学校や高校の教科書でもおなじみのあまりにも有名な人物です。



 その孫文になくてはならないイギリス人がいました。

 カントリー博士ことジェームス・カントリーです。



 彼は香港 (ホンコン) 大学の前身である西医書院の外科の主任教授でした。

 実は孫文は医学の勉強をしていたころがあり、ここでカントリーに習っています。


 
 つまりカントリーの教え子の一人が孫文なのです。

 宣教師でもあり、イギリスの医学博士でもあった彼は、孫文の革命運動に自分のできるすべてを注ごうと決意していました。



 趣味は写真で、香港で営業されていた、日本人の梅屋庄吉の写真館によく出入りしていました。

 孫文と梅屋庄吉を引き合わせたのはカントリーです。



 庄吉は孫文が熱く語る三民主義に傾倒し、革命の資金援助を約束します。

 生涯で1兆円を超える大金になりましたが、庄吉は何の見返りも要求しなかったといいます。



 「あなたは兵を挙げてください、私は財を挙げて支援します」



 これが庄吉の熱い言葉でした。



 ちなみに孫文の三民主義とは 「民族の独立」 「民権の伸長」 「民生の安定」 の3つを一言で言い表したものです。



 当時の中国は、漢民族から見ると異民族の満州民族に中国全体を支配されていました。

 さまざまな差別により漢民族の人権は制限され、数々の戦争に敗れました。



 国民には重税がかけられ、生活は貧困で不安定なものになっていました。

 孫文は清王朝を倒して再び漢民族の国をつくり、基本的人権が尊重される、自由で平等な中国をつくろうとしていたのです。



 カントリーは、若い孫文をイギリスに招いています。



 革命運動を始めて間もないころ、清の役人に追われる身分となった孫文は、日本やハワイに逃れたあと、カントリーのいるロンドンに渡ったのです。



 カントリーは下宿先を紹介したりして、あれこれと面倒を見ましたが、清の役人は孫文をつかまえて清国公使館に監禁してしまいます。



 イギリス政府に黙って、孫文を中国に送り返そうという計画を立てていました。


 本国に送り返されれば、待っているのは残酷な処刑です。


 
 孫文は命がかかった大きなピンチに立たされたのです。



 この時、教え子のために敢然と立ち上がったのがカントリーです。

 彼はイギリスで清国が政治犯を逮捕することは不法である、として外務省に訴えたのです。



 さらに新聞社にも連絡しました。

 新聞はこのことを大きく取り上げ、国中に訴えたのです。



 カントリーの闘いによって清国公使館を糾弾 (きゅうだん) する世論が作られ、孫文の監禁は解かれたのでした。



 僕も教師なので教え子はたくさんいます。

 カントリーのこの行動にはとても共感できるものがあります。



 カントリーの行動力によって命拾いした孫文は、その後中国で革命を起こし、アジアで最初の共和国を建設することになったことはご存知の方も多いでしょう。



 いわゆる 「中華民国」 ですね。



 このイギリスのロンドンで、カントリーの勇気ある行動がなければ、中国の歴史は変わっていた可能性が極めて高いと考えられます。



 少なくとも、孫文は中国に護送されて処刑され、歴史の闇の中に葬られていったことでしょう。


 ジェームス・カントリーも梅屋庄吉も、日本の歴史の教科書には全く登場しない人物です。



 しかし、世界史上有名な辛亥革命(しんがいかくめい)の張本人である孫文にとっては、なくてはならない人物だったのです。



 世界の民族差別を乗り越えた基本的人権の視点を重視すれば、僕は彼らにもっと光が当てられてもよいのではないかと考えています。
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