11 ナイチンゲール (1820年~1910年)




~職業差別を乗り越えて看護にかけたイギリスの貴婦人~




 「クリミアの天使」

 「ランプをもった貴婦人」



 などと呼ばれ、世界中の看護師のお手本とされるフローレンス・ナイチンゲール。



 戦争で敵味方関係なく看護にあたった、命を大切にする精神と実践は、大人だけでなく世界中の少年少女たちにも、現在まで語り継がれています。



 ロシアとトルコの戦いにイギリスとフランスが加担しておこった「クリミア戦争」での



 「看護師にとって負傷した兵隊さんは敵も味方もありません」



 という言葉は、僕も強烈な印象と共感を覚えます。

 それこそ小学生のころから絵本で知っていました。



 しかし、この有名なナイチンゲールと「職業差別」の関係については、意外と知られていないのではないでしょうか。



 彼女は職業差別を乗り越えて、この仕事に命をかけた女性だと僕は考えています。



 まず、彼女の出身はイギリスの貴族です。

 上流階級のお嬢様で、裕福な家庭で育ったので、何不自由なく成長することができました。



 ところが看護師を志すことを知ったとたん、家族からの猛反対にあいました。

 当時のイギリスでは、看護師の社会的地位がとても低かったのです。



 看護師は大酒飲みの女が売春と兼業していることも少なくなく、上流階級の子女にしてみれば口に出すのもはばかられる職業でした。



 ナイチンゲール24歳のときです。

 家族は腰を抜かさんばかりに仰天しました。



 母親は卒倒し、気つけ薬の世話になりました。

 姉は一週間も寝込んでしまうし、父親はショックで家に帰ってこなくなったそうです。



 まさに職業差別ですね。

 差別はする側が不幸になるという典型的な例だといえるでしょう。



 しかし、どんなに反対されてもナイチンゲールの決意は揺るがず、一途に看護の勉強と訓練を続け、看護師としての腕を磨きました。



 1853年、ついに努力が認められ、ロンドンの病院に看護師の監督として採用されました。

 33歳のときです。



 そしてその年、クリミア戦争が勃発したのです。



 彼女は自分から進んで陸軍大佐に手紙を書き、1854年、38人の看護師を連れて、ロンドン港から船で、トルコのスクタリ野戦病院へ向かったのです。



 想像をはるかに越えた劣悪な環境の中で、人間の命を守るという大きな成果が出たことは、世界中で知られている通りです。

 それまで10人に4人の割合で死亡者が出ていたこの野戦病院では、100人に2人にまで減少しました。



 このナイチンゲールの精神を理想として誕生したのが「赤十字社」ですね。



 1864年、アンリ・デュナンによって設立され、現在は活動の範囲を広げて災害の救援活動、病気の予防、献血なども行うようになりました。


 本部はスイスのジュネーブにおかれ、世界の国々が加盟しています。



 帰国後のナイチンゲールは、健康面で厳しい状況に直面します。

 無理がたたったのか、いつの間にか病気という病気にことごとく感染してしまっていたのです。



 まだ37歳という若さでしたが、帰国の翌年には看護師を引退せざるを得なくなりました。

 年々体は衰弱し、1869年には寝室から出られなくなりました。



 70歳を前に失明し、やがて耳も聞こえなくなり、最後の4年間は記憶すら失っていたそうです。

 90歳まで生きましたが、実に50年間もベッドの上での生活になりました。



 しかし病床にあっても、ナイチンゲールは残り時間を惜しむように仕事をこなし、病院や介護問題の解決に最後まで力を尽くしました。



 看護学校を設立し、著作活動も行いました。

 実に150点もの著作を発表しています。



 心底精いっぱい、自分の人生を自分らしく生きた人だったのですね。
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