9 洪秀全 (1813年~1864年)




~民族差別からの解放に立ち上がった中国の農民~




 中国人の9割以上は漢民族です。


 長い歴史の中で、その大半は漢民族自身が自分たちの国、中国を治めてきました。




 しかし、他の民族に漢民族全体が支配されたことが2回あります。


 1回目は元 (げん) です。



 日本でいうとほぼ鎌倉時代に相当します。

 元王朝はモンゴル族が支配した王朝でした。



 2回目は清 (しん) です。

 江戸時代から明治時代に相当します。



 清王朝は中国東北地方の少数民族である女真族(後の満州族)が漢民族を支配した王朝です。


 どちらも支配のための道具として民族差別を利用していました。



 特に清王朝は漢民族に対して女真族の髪型である辮髪 (べんぱつ) を強制しました。

 前頭部の髪を剃り上げて後頭部は腰のあたりまで伸ばすという民族独特のものでした。




 この例1つとってみても、漢民族は服従させられていたことがわかります。



 しかし、欧米列強のアジア侵略が激しくなると、清はアヘン戦争をはじめとして相次ぐ戦争に敗れ、財政がきびしくなりました。



 そして国民に重税をかけたのです。

 ここに至って漢民族の不満が爆発しました。



 その先頭に立ったのが、太平天国をつくった洪秀全 (こうしゅうぜん) という人物です。



 洪秀全は広東省広州に近い客家(はっか)の農家の生まれです。

 客家というのは 「移住してきた人々」 という意味で、よそ者として冷遇されていました。



 子どものころから秀才といわれ、役人をめざして科挙を4回受験しましたが合格することができず、塾の先生をしながら受験勉強を続けていました。



 その後、独自のキリスト教団である上帝会を組織しました。

 1851年、太平天国の建設をめざして江西省の金田村 (きんでんそん) で挙兵します。



 世界史上有名な 「太平天国の乱」 と呼ばれているできごとですね。


 でもこの言葉は清王朝の皇帝の立場に立った呼び方でしょう。



 被差別の立場にあり、人口の9割を占めている漢民族の人々の側に立てば、

 「太平天国の解放戦争」



 と呼ぶほうが内容的には適切ではないかと僕は考えています。



 「土地も食料も公平に分配し、平和で平等な国をつくろう」

 「満州の征服王朝、清の象徴、辮髪を切れ。



 漢民族は神のもとに平等な世の中をつくるのだ」



 太平天国軍は辮髪をやめて長髪にしたので 「長髪賊の乱」 とも呼ばれました。

 この賊という言葉も、人を見下す意味合いを感じさせる言葉ですね。



 人間として対等に考えれば解放軍でしょう。



 「太平天国には身分の高い者と低い者、金持ちと貧乏人、そんな差別はない」

  上帝 (エホバ) を信仰し、自由で平等な社会をつくる運動になっていきました。



 税金も取らないようにしました。



 1853年、太平天国軍は50万人にふくれあがり、ついに南京を占領しました。

 一時的ではありますが、南京とその周辺地域に事実上の独立国が誕生したのです。



 南京を天京と改めて首都とし、洪秀全は天王と名乗りました。

 太平天国は一時300万人にもなりました。



 しかし太平天国の快進撃はここまで。



 国内の指導者どうしの争いが後を絶たないようになり、天王となった洪秀全もタバコや酒を禁止しながら、自分は宮殿で女性たちを侍らせた私的な快楽がうわさになったりしました。



 1864年、清軍と列強諸国の外国軍との攻撃を受け、太平天国はあっけなく滅亡します。

 洪秀全も首都陥落の直前に、病死したとも自殺したとも伝えられています。



 民族解放の夢は武力によって破れ去りましたが、この解放戦争は後に孫文という人物に受け継がれます。


 約50年後、辛亥 (しんがい) 革命で清を倒した孫文は



 「自分は第二の洪秀全になるんだ」


 と言って革命運動を起こしたのです。



 洪秀全が立ち上がったとき、すでに中国は民族差別から解放される 「革命」 が始まっていた、と考えるのはいかがでしょうか。
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