8 ストウ夫人 (1811年~1896年)



 ~物語を通して人種差別と闘ったアメリカの主婦~



 「奴隷法は私には信じられないこと、驚くべきこと、悲しむべきことです。

  残酷と不正を思って、私の心は苦しみで破裂しそうです」



 これはストウ夫人の言葉です。



 人種差別問題を当事者たちと共有しているからこそできる発言ですね。



 自分自身の問題としてとらえているのがよくわかります。

 他人事として考えていれば決してこのような言葉は出てきません。



 ストウ夫人の本名はハリエット・エリザベス・ビーチャー・ストウです。



 僕は彼女をさす言葉を使うときは 「ハリエット・ストウ」 でよいと思うのですが、日本の書物にはやたらと「ストウ夫人」という言い方が多いのです。



 なぜでしょうか。



 ハリエットという呼び名でなく 「夫人」 という呼び名を使うこと自体、個人が尊重されているのか疑問です。

 夫は大学教授だったそうですが、僕はあえて彼女の本名、ハリエットを使うことにします。 



 1811年、ハリエットはコネチカット州リッチフィールドに生まれ、1832年、家族でシンシナティに移住しました。

 21歳のときに、奴隷売買の恐るべき実態の場面に遭遇しています。



 この体験が、後に名作 「アンクル・トムの小屋」 を書くきっかけになりました。

 1832年、彼女は執筆の決意をします。



 その4年後、カルヴィン・ストウと結婚し、7人の子どもが生まれています。

 子だくさんの健康的な印象がもてる主婦ですね。



 1852年、「アンクル・トムの小屋」 が発行されました。

 1年間で30万部を売りつくすベストセラーになりました。



 物語の主人公である黒人奴隷のトムは、温和で謙虚で愛情に富んだ人物です。

 彼が白人の奴隷主の間を次々に売られ、むちで打ち殺されるまでの悲惨な一生が描かれています。



 南部の非人道性と、奴隷たちの苦しい生活を描いたので、奴隷問題について大きな議論をよびおこすことになりました。

 当時の黒人奴隷に対する人権侵害はさらに徹底していました。



 それは 「逃亡奴隷法」 という法律があったのです。



 この法律によれば、逃亡奴隷に援助の手を差し伸べたりかくまったりした者は告発され、刑事罰を受けるというものです。



 ただただ、驚いてあきれるばかりですね。



 この法律では黒人は人間ではなく、奴隷主のための道具にすぎないのです。

 現代ではとても考えられないような法律がまかり通っていました。



 ハリエット・ストウは40歳にして、意を決してペンを執ったのです。

 ペンによるアメリカの差別との闘いの始まりですね。



 このことがアメリカの世論に火をつけます。



 後に1861年、南北戦争がおきますが、この戦争の原因の一つとして 「アンクル・トムの小屋」 があることは明白です。



 そして中学校や高校の教科書にある通り、リンカーン大統領のあの有名な 「奴隷解放宣言」 につながっていくのです。



 その後、確かに制度としての奴隷はなくなりました。

 しかし、黒人を見下す習慣は「差別」という形で現在まで厳然として存在しています。




 問題はまだ解決されていないのです。




 たとえばオリンピックのアメリカ代表の選手で、陸上競技やバスケットボールでは、すぐれた黒人選手がたくさんいます。

 でも、水泳や器械体操ではアメリカの黒人選手は皆無に等しいという現実があります。




 なぜなのでしょうか。




 「アンクル・トムの小屋」 はまだ終わっていないのです。




 不合理な黒人差別の解消に向けてその第一歩を踏み出したハリエット・ストウ。




 彼女こそ基本的人権の視点から見た世界史にはなくてはならない人で、もっと光を当てて学ぶべき生き方をした人物だと僕は思います。

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