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~「A校に生きA校に死す」 「こんなところで死ねるか」~


 僕が高校1年の時、同校の知り合い2人が冗談交じりに交わした会話です。前者は山田さん(仮名)で後者は川上さん(仮名)です。


 2人とも僕より1つ年上の高校2年生でした。山田さんは第一希望で入学してきた生徒です。川上さんは第二希望での入学でした。


 だからこのような言葉が出てきたわけですね。山田さんは自分が通う学校に誇りをもっています。だから生き生きしていました。


 「こんなところ」と表現した川上さんは全く誇りを持っていません。では、この会話を聞いていた僕自身はどうだったでしょうか。


 残念ながら、当時の僕はどちらかといえば川上さんの意見に賛成でした。第三希望での入学だったからです。


 A校の在学生や卒業生に対する学歴差別の意識があったことは明白ですね。高校入試の難易度によって、高校生のランク付けをして上下関係で見ていたのです。


 これが自分自身を差別することにもつながっていました。卒業後、山田さんは第一希望の大学に合格して進学していきました。


 川上さんの進路は不明ですが、僕は何と浪人をしてその後に第四希望の大学に進学しました。高校進学と合わせれば第七希望ということにもなりますか。


 散々な受験結果です。どちらが幸せかは一目瞭然ですね。でも、今ではこの結果で良かったと思うようになりました。


 それは冷静に考えると、当時の自分自身に最も合った高校であり、大学であったと思えるからです。


 大学生活は結構楽しかったし、卒業後の就職、そして今現在の生活も自分なりに楽しめているからです。


 自分の学校に誇りを持つか持たないか、決めるのは自分自身です。大切なことは差別意識から解放されているかどうかだと考えるようになりました。


 歴史上の人物で、ランク付けによる差別意識から解放されていたと考えられる有名人がいます。 「天は人の上に人を造らず、天は人の下に人を造らず」 で知られる福沢諭吉ですね。


 彼は人間の平等と独立自尊をめざして差別と闘っています。少年時代は九州大分県の中津藩で被差別の立場に立たされています。

 武士どうしのランク付けで下位に位置し、上から目線で馬鹿にされていました。絶望のあまり、飲酒の癖までついてしまいました。


 転機が訪れたのは14歳のときでした。緒方洪庵との出会いです。学問に目覚め、中津を脱出して大坂に出たのでした。


 適塾の自由な雰囲気の中で蘭学を学んでいます。このことが差別を乗り越える第一歩になったのだと思います。この年は幕末の時期で、あのペリーが来航した年でもありました。


 1860年、18歳のときには勝海舟とともに咸臨丸でアメリカに渡っています。ここでも自由な雰囲気の中で、江戸末期の日本の理不尽な差別を痛感したことでしょう。


 8年後には江戸に英語塾を開き、慶応義塾と名付けました。大勢の人の前で自分の意見を自由に述べることを大切にし、演説会も開きました。新しい時代の幕開けですね。


 諭吉は生涯位階勲等の類は一切受けていません。文部省からの表彰を断り、政府からの爵位を与えるという話も断っています。


 権威や肩書にはこだわらない人です。独立自尊ですね。これほど解放された人が他にどれほどいたでしょうか。


 僕は自分が高校生の時に、もっと福沢諭吉のことを学んでいれば、より生き生きとした高校生活になっていたのではないでしょうか。
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