12 コシューシコ (1746年~1817年)




~自由のためにヨーロッパの強国と戦ったポーランド独立運動の父~




 「ヨーロッパの強国」 とはロシア、プロイセン、オーストリアの3国を指します。

 それぞれエカチェリーナ2世、フリードリヒ2世 (大王)、マリア・テレジアの時代にあたります。



 差別者としての仕掛け人は、エカチェリーナ2世です。

武力介入によって、ポーランドを保護国にしようと図ったのです。



 これを恐れたプロイセンのフリードリヒ2世は、オーストリアを誘い、さまざまな策謀によってロシアにポーランドの保護国化を断念させました。



 その結果1772年、3国による第一次ポーランド分割が行われました。



この3人の中で、マリア・テレジアだけは最後までサインしなかったそうです。

 なぜポーランドを分割しなければならないのか、疑問に思っていたようです。



 もしかしたら、人権感覚がすぐれていたのかもしれません。



  しかし、息子のヨーゼフ2世が積極的に分割に参加しました。


 分割はポーランド人にとって大きな衝撃です。



 改革をしなければならない、という気運が高まる中で、フランス革命の影響もあって、1791年に新しい憲法が制定されました。



 この憲法でシュラフタとよばれる特権的身分の人たちの諸特権が廃止され、社会の近代化が促進されました。



 ところが、新憲法の廃案をもくろんだポーランド国内の保守的なシュラフタの要請に応じて、ロシアが再び武力干渉を行い、これを見てプロイセンも軍隊を送ったのです。



 1対複数の 「いじめ」 に似ています。



 1793年、この2国間で第二次ポーランド分割協定が成立しました。


 この差別的な政策に、ポーランドの国民が黙って見ているはずはありませんね。



 ここで登場するのがコシューシコです。



 コシューシコは、ベラルーシ系貴族の家庭に末子として生まれています。



 ワルシャワの幼年学校を卒業後、1769年から1774年の間、ドイツ、イタリア、フランスに派遣されて軍事教育を受けました。


 アメリカの独立戦争には義勇兵として参加し、ジョージ・ワシントンの副官としてイギリスと戦いました。



 他国の自由のための戦いに自ら進んで参加するという行動は、この問題を他人事ではなく、自分自身の問題として共有していたからこそできたのだと僕は考えています。



 その後アメリカが見事に独立を達成したことは、世界中の人々が知る通りです。

 コシューシコは、人権感覚に優れたアメリカの英雄の一人でもあるのですね。



 帰国後、彼は祖国ポーランドの自由を守るために立ち上がります。



 ポーランド軍の司令官の一人として従軍し、1792年、侵入してきたロシア軍をドゥビェンカの戦いで破りました。


 一時はワルシャワ、ヴィルナをおさえる快進撃をしますが、やがてロシア、プロイセンの連合軍に圧倒されてしまいます。



 1794年10月には彼自身も戦傷を負い、ロシア軍に捕えられ捕虜にされてしまいました。



 特赦 (とくしゃ) された後、ライプツィヒやパリで亡命生活を送り、最後まで母国の独立運動を続けますが、最終的にはスイスで客死しました。



 その結果1795年、3国の第三次分割により、ポーランドは独立国でなくなりました。


 再び独立を達成するのは1918年、実に100年以上後のことになります。




 コシューシコは、確かに高校世界史の教科書で取り上げられている人物です。


 基本的人権の視点から考えると、もっと大きく取り上げてもよいのではないかと僕は思います。



 ポーランドを差別し続けたエカチェリーナ2世の伝記に書かれています。


  「確かにコシューシコは英雄だった」 



 世界史上もっとたくさんの光を当てられるべき人物の一人ではないでしょうか。
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