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4 林 羅山 (1583 ~ 1657)3uwl1b






~肩書と権威で生き自らの差別心から自滅した儒学者~






 家康、秀忠、家光、家綱の4人の将軍に学問を教えた大先生です。




 儒学の中でも、特に朱子学は官学として認められ、羅山は大学頭(だいがくのかみ) という幕府の学問の責任者でした。




 武士はもとより一般庶民にいたるまで、多大なる影響を及ぼしました。





 ところが明暦の大火がおこると、けがや火傷をしたわけでもないのに、わずか3日後にあっけなく死亡してしまいました。




 この悲劇の背景には、いったい何があるのでしょうか。




 1583年、羅山は京都の四条新町で生まれました。

 幼少時より神童として名高く、学問で身を立てるために京都・建仁寺に入門しました。




 しかし、彼は仏教が嫌いでした。

 キリスト教も嫌いで、後に両者とも攻撃しています。




 神や仏の前に平等という教えを、受け入れることができなかったのです。

 出家を拒んでから、朱子の「四書集注」 を読んで儒学に開眼しました。




 1604年、儒学者、藤原惺窩(せいか) のもとに入門しました。

 惺窩は羅山の志の高さと優秀ぶりに驚き、「林秀才」 と呼びました。




 23歳のとき、惺窩の推薦で、羅山は徳川家康に仕えることになりました。




 以後、朱子学を教えながら、家康のブレーンの一人となり、江戸幕府の文教政策、外交などに積極的に参画しています。




 江戸城内には銅造りの書庫を与えられ、そこに多くの蔵書を保管しました。




 3代将軍の家光からは、上野に土地と資金を与えられ、後の昌平坂学問所の前身になる学舎と書庫を建てたのです。




 順風満帆ですね。




 それにしても、なぜ羅山は幕府の心をとらえることができたのでしょうか。

 僕は、彼の朱子学の思想の中にある「上下定分の理」 が大きく関係していると思います。




 「天が上にあり、地が下にあるように、人間関係も君臣、父子、夫婦、兄弟などの上下関係が必要で、不変不滅である」 というものです。




 この考えには、賛否両論があるでしょう。

 確かに社会的な秩序が重視され、国は治めやすくなります。




 幕府にとっては好都合ですね。




 しかし、これでは身分差別や女性差別、兄弟差別などのあらゆる差別を正当化することにつながってしまうことにならないでしょうか。




 支配する者にとっては歓迎される考え方ですが、されるものにとっては自由を奪われ、やりたいこともやれない、言いたいことも言えないことになってしまいます。




 上下の礼儀を大切にして、上のものを敬えといいますが、大切なことは身分に関係なく、人間として人間尊重の精神を貫くことではないでしょうか。




 羅山は自ら、「私は強烈な差別者です」 と言っているようなものですね。

 だから、平等を大切にする仏教やキリスト教を攻撃し続けたのです。




 幕府にとって都合のよい権威ある学問の最高責任者になり、この地位は子孫たちにも代々引き継がれていきました。




 上から目線で他者を見下して、得意になっていたことが考えられますね。




 しかし差別はいつか、する側が不幸になります。

 羅山にも、不幸は突然訪れました。




 明暦の大火です。

 1657年、この大火事によって江戸の町の6割が消失し、10万人の焼死者が出ました。




 江戸城も本丸と二の丸が被災しています。

 羅山の大切な銅造りの書庫も焼けて、蔵書もすべて灰になったのです。




 これを知った彼は、一晩中ため息をついていたかと思うと、翌日には床についてしまいました。

 2日後に医師を呼んで、いったんは持ち直したものの、何とその翌日には亡くなっていました。




 権威の象徴を失った心労です。




 権威とその背後に横たわっている差別心から解放されていれば、少なくともここで死ぬことはなかったのではないでしょうか。
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