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2 徳川忠長 (1606 ~ 1633)3uwl1b






~兄弟差別をして自ら不幸を招いた将軍の弟~






 鎖国で有名な、3代将軍徳川家光の弟です。




 少年時代から聡明で、元服後は駿河の国を与えられ、遠江、甲斐、信濃も支配する55万石の大大名になりました。




 朝廷からも大納言の地位に任じられ、「駿河大納言」 とまで呼ばれるようになりました。




 しかし、御三家をもしのぐこの大城主は、わずか27歳の若さで自殺に追い込まれる悲劇で一生を終えています。




 この優秀な弟に、いったい何があったのでしょうか。




 1603年、忠長は2代将軍徳川秀忠の三男として生まれました。

 少年時代の名は、国松といいます。




 母親は江(ごう) で、2歳年上の兄家光と同母でした。




 両親から見ても、国松は明らかに家光よりも利発で、次の将軍にふさわしいと考えられていました。




 家臣たちも同じ考えで、事あるごとにこのことを口にしたのでしょう。

 しだいに3代将軍は忠長だという風潮が、江戸城に広く行き渡るようになったのです。




 だから、国松も自分は当然兄より上、と考えました。

 兄弟差別ですね。




 家光は乳母の春日局(かすがのつぼね) がつきっきりで、実母の江には育児をすることが許されていませんでした。




 それに比べて国松は、母親が直接育てているので、愛情は比較にならないほど深いものになっていきました。




 実母と乳母の仲は良くなく、両者の権力争いが背景にあったと考えられます。

 しかし、この争いは祖父の鶴の一声で決着がつきました。




 大御所、徳川家康です。




 静岡の駿府城に引退していた家康に、春日局が直訴したのです。

 家康の決定となれば、だれも逆らうことはできませんね。




 その言葉通り、3代将軍には家光が就任することになります。

 それでも、元服して忠長と名のった国松には、駿河という重要な領地を与えられました。




 江戸からも近い交通の要地です。

 領地も広大で、家康が最後に居住していた城でもあります。




 破格の待遇といえるでしょう。




 しかし、「自分の方が兄より優れている」 という上から目線の意識は、なかなかぬけませんでした。




 不満がうっ積していったのです。

 権力にこだわり、権力への欲望が十分に満たされません。




 異常な行動が目につくようになっていきました。

 少しでも気に入らないことがあると、周囲の人々にあたり散らすことが多くなりました。




 殺生禁止の御領地で、狩もやりました。

 まるで、自分は特別な権力をもっているからいいのだ、と言わんばかりですね。




 この行動を諌めた家臣は、忠長から斬りつけられてしまいました。

 これでは、ほかの家臣まで萎縮してしまいます。




 正しい言動が通らなくなりました。




 理不尽な仕打ちが繰り返されたので、家臣たちは慎重に行動するようになりましたが、やがて幕府の耳に届くことになりました。




 いくら将軍の弟といっても、これでは兄も黙ってはいないでしょう。

 忠長は、甲斐に蟄居を命じられました。




 その後は、高崎城に幽閉の身となりました。

 最後は家光打倒の怪文書を回したという罪で、自害に追い込まれたのでした。




 まるで坂を転げ落ちるような、あまりにも悲しい結末です。

 この悲劇の背景に横たわっているものがあります。




 まず、忠長は生涯にわたって兄の家光を見下し続けました。

 差別意識から、最後まで解放されなかったと考えられます。




 次に、嫡男を乳母が育て、実母がないがしろにされるという制度です。 

 差別者同士の権力争いが招いた悲劇でもあります。




 結局、差別は「する側が不幸になる」 という典型的な事例になってしまったのではないでしょうか。




 そして、家臣の言うことに耳を貸さなかったことも、火に油を注ぎました。




 忠長の人生のどこかで方針転換をして、この悲劇を防ぐ方法を見つけることはできなかったのでしょうか。
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