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7 石田三成 (1560 ~ 1600)3uwl1b






~秀吉とともに栄え秀吉とともに権力を失った側近~






 優秀な行政手腕をもつ武将です。

 まじめで緻密に動き、主君豊臣秀吉のために誠心誠意働きました。




 まだ羽柴秀吉と呼ばれていた時代から数々の戦場で、地味な補給と輸送を担当して、天下統一にはなくてはならない役目を果たした逸材です。




 主君から絶大なる信頼を勝ち取っていました。




 ところが天下分け目の関ヶ原の戦いで敗れて、処刑されるという悲しい結末を迎えたことは広く知られている事実です。




 この背景にはいったい何があるのでしょうか。




 1560年、三成は現在の滋賀県長浜市で、石田正継の次男として生まれました。

 父親は土豪だったといわれています。




 14歳のときに、羽柴秀吉と運命の出会いをします。




 秀吉はちょうどこのころ、織田信長から近江の浅井氏の旧領を与えられ、長浜城主になっていたのです。




 鷹狩りの途中で汗だくになった秀吉は、観音寺という寺に立ち寄りました。

 ここで寺小姓をしていた三成に出会ったのです。




 この出会いには、お茶に関する有名な逸話があります。

 三成は秀吉に、1杯目はぬるいお茶をたっぷり入れて出しました。




 2杯目は、少し熱いお茶を半分入れて出しました。

 3杯目は、熱いお茶を小さな茶碗に入れて出したのです。




 最初から熱いお茶を出すと一気に飲もうとして火傷するので、ぬるいものから出したということです。



 すごい気配りですね。




 秀吉は大いに感心し、三成を家臣にして小姓として雇ったというものです。

 これは「三献茶」 の話と呼ばれていますが、史実かどうかは諸説があります。




 それにしても、三成の性格が見事に凝縮されている逸話ですね。

 その後は数々の戦いに従軍し、秀吉の側近としての地位を獲得していきます。




 現代風にいえば、「内閣官房長官」 であり、「秘書室長」 に近い存在だったといえばわかりやすいでしょうか。



 特に秀吉が天下人となってからは、三成を通さなければ物事が進まないという状態になっていました。



 ただ、同時に敵も多く作りました。




 上司である秀吉には忠誠で、心配りも万全でしたが、他の多くの武将たちには「上から目線」 で威張っていると映りました。




 こんな感じの人、現在でも至る所にたくさんいますね。

 上には弱いが、下には強いという人です。




 その背景には、権力への執着と差別心があることは明白です。

 これでは、人望が伴わない権力者になってしまいます。




 秀吉の権力によって立っていた三成は、秀吉の病死とともに、徐々に権力を失うことになりました。



 後継ぎの豊臣秀頼では、誰が見ても力不足は歴然としています。




 三成はそれでも、秀頼のもとで権力を振るおうとしたのでしょうか。

 基本的に人望がなく、たくさんの武将たちから恨まれていました。




 一時は福島正則ら7将から襲撃され、命からがら逃げ出す場面もありました。

 徳川家康によって命だけは救われましたが、近江佐和山城に引退を余儀なくさせられました。




 当時の一般庶民は、このできごとをどのように見たでしょうか。

 すでに、勝負ありました。




 いくら形だけ兵を増やしても、家康と戦って勝てる状態ではないし、天下に号令を下す器ではないことも濃厚です。




 1600年、関ヶ原の戦いがおこりました。




 これは家康の罠でしょう。

 豊臣のプライドと権力にしがみつく実力不足を、家康から見抜かれていたのです。




 家康から見れば、予定された戦いであり、予定された勝利です。

 関ヶ原に住む人々には、田畑が荒らされて大迷惑ですが。




 三成が差別心からもう少し解放されていれば、少なくともここで死ぬことはなかったでしょう。




 行政手腕を武器に、別の生きる道を拓いていくことも可能だったと考えるのは僕だけでしょうか。
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