3 武田義信 (1538 ~ 1567)3uwl1b





~政略結婚の犠牲になって若死にした強豪の嫡男~





 ここでいう強豪とは、戦国最強と謳われ、織田信長が最も恐れていた武田信玄のことです。

 義信は信玄の嫡男であり、正当な後継者です。




 利発で武勇にも優れ、将来を嘱望された武田家の期待の星でした。

 数々の戦いで活躍し、あの有名な川中島の戦いでも父とともに奮戦しています。




 一時は宿命のライバル、上杉謙信を後退させるほどの奮戦ぶりでした。

 しかし、義信の生涯はわずか30年。




 いったい彼の身に何があったのでしょうか。

 父親の信玄は、戦国時代を生き抜くために「三国同盟」 を結んでいます。




 自分の領国甲斐(山梨県) のお相手は、駿河(静岡県) と相模(神奈川県) ですね。

 今川義元と北条氏康との間に、子どもたちどうしの婚姻関係を結んだのです。




 典型的な政略結婚ですね。

 この中の一つとして、駿河の今川義元の娘が武田義信の妻に迎えられたのです。




 これ以前にも信玄の妹が義元の妻として嫁いでおり、武田と今川は三国同盟の中でも特に深い関係にありました。



 1560年、桶狭間の戦いがおこりました。




 状況は一変します。

 三国同盟の一角を担っていたリーダーの一人、今川義元が織田信長に討たれたのです。




 信玄は驚くとともに、逆にこの事件を駿河攻略の好機ととらえます。

 重臣、馬場信春も同じ考えです。




 義元を失った今川は弱くなってしまったのですね。




 今川の一武将であった松平元康(もとやす) は徳川家康として独立し、織田と同盟を結びました。




 信玄は、織田・徳川に接近して、今川の駿河攻略の準備を開始しました。

 これに真っ向から反対したのが、嫡男の義信です。




 政略結婚とはいえ、夫婦仲も睦まじかったのでしょうか。

 父とは全く意見が合いません。




 亡くなった義元の後継者、今川氏真(うじざね) も義信と連絡をとったといいます。

 何しろ氏真の母は信玄の妹であり、娘は義信の妻です。




 三国同盟をくずす信玄の方針を、黙って認めるわけにはいきません。

 義信が考えた末の結論は、信玄に対する謀反です。




 そういえば、信玄も自分の父である武田信虎を追放していましたね。

 父の信玄に代わって、自分が甲斐の領主になろうとしたのです。




 信玄も同じことをやっているので、歴史が繰り返しても不思議はありません。

 武田家の重臣、飯富虎昌(おぶとらまさ) も同意しました。




 ところが、義信が虎昌に宛てた手紙がどういうわけか、虎昌の弟、山県昌景(やまがたまさかげ) の手に渡ってしまいました。




 手紙の内容は、謀反を承諾したことに感謝する文が書かれていたのです。




 これは一大事と、昌景は信玄に密告しました。

 飯富虎昌をはじめ、この計画に加担した多くの家臣が処刑されました。




 義信は東光寺に幽閉されたのです。

 亡くなったのは2年後です。




 義信の妻は離縁させられて今川の下に戻されました。

 この間の詳細はわかっていませんが、最終的に義信は切腹に追い込まれたといいます。




 ほかに、病死説と信玄による毒殺説もあります。

 いずれにせよ、義信の心労は相当なものであったと考えられます。




 この親子の権力争いは、信玄が先手を打って勝ったということになります。

 しかし、信玄は義信を殺そうとまでは考えていなかったのではないでしょうか。




 この結末の後悔がついてまわったからです。

 彼が近臣に語ったと伝えられている言葉です。





 「義信さえ生きていれば、自分の死後の武田家は安泰なのに」




 武田家の権力を握っても自由になれず、権力を脅かす者に対する不安に振り回されることになりました。




 義信は、そこまでして甲斐の国の権力を奪おうとしたのでしょうか。




 背景にある差別心から解放されていれば、もっと家臣や一般民衆とも仲良く楽しく生きることが可能だったのではないか、と僕は考えています。
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