10 プガチョフ (1742年頃~1775年)




~農奴解放のためにエカチェリーナ2世に立ち向かった軍人~




 日本の高校世界史の教科書では 「プガチョフの農民反乱」 とか 「プガチョフの乱」 という表現をしていますが、ロシアの歴史学界では 「農民戦争」 という呼び方が一般的です。



 僕はあえてロシア最大の 「農奴解放戦争」 と呼ぶのが、一般民衆の立場に立った呼び方ではないかと考えています。



 エカチェリーナ2世時代の農民は、農奴制のもとでみじめなくらしを強いられていました。

 まるで奴隷同様の扱いを受けていたのです。



 土地を所有できたのは貴族だけで、農奴は土地とともに、貴族の私有財産でした。

 そして農奴は土地にしばられ、まったく自由を認められませんでした。



 典型的な身分差別ですね。



 ロシア帝国の大帝と呼ばれている強力な皇帝は、ピョートル1世とエカチェリーナ2世の二人ですが、ピョートル1世は農奴制を強化していました。



 またエカチェリーナ2世も、貴族の支持を取り付けるために農奴制を推し進めています。



 そのため農民の暴動が頻発し、1762年から1769年までのわずか数年間だけで、ロシア中で50回を越えました。


 だからプガチョフが中心になった農奴解放戦争は起こって当然という状況で発生したものと考えられます。



 プガチョフは、ロシアのウラル川に近い地方のドン・コサックの小地主の息子として生まれました。

 コサックとは、ウクライナと南ロシアなどで生活していた軍事共同体のことです。



 ドン・コサックはそんな数あるコサックの一つで、ウクライナ人、南ロシア人、タタール人などによって構成されていました。


 現在の南東部ウクライナと、南西部ロシアにあたるドン川の流域を中心に勢力圏をもっていました。

 17世紀半ばにロシアの強化にともなって独立を失い、19世紀から20世紀にかけて、ロシア所属の最大の非正規軍となりました。



 1758年、プガチョフはコサックの娘と結婚すると、七年戦争や第1次露土戦争などにコサック軍として出征します。

 陣中では優秀なコサックとして頭角を表し、指揮職の一つである少尉になりました。



 傷病兵になったこともあり、数年を放浪して過ごしたり、逮捕されたことも何度かありました。



 彼は農奴制廃止を掲げて、政府に隠れ密かにロシア皇帝をまねて、軍隊や官僚機構を作り上げました。

 さまざまな少数民族や工場労働者、炭鉱夫もプガチョフの軍に加わり、多いときには2万5000人にまでふくれあがりました。



 1773年9月、農奴解放戦争はプガチョフにつき従う数十名のコサックによってはじまりました。

 一時は政府軍を破り快進撃をしています。



 偽皇帝を名乗り 「自分はピョートル3世である」 と言って、農奴制からの解放を宣言しました。



 ピョートル3世は、エカチェリーナ2世の元夫であった人物で、謎の死を遂げています。

 妻に殺されて皇帝の座を奪われたのではないかという説もありますが、真相ははっきりしていません。



 プガチョフは1774年には、ボルガ川とウラル山脈にわたるほぼ全域を掌握しましたが、快進撃はここまで。

 その後は敗走を重ね、最終的には敗れてモスクワで処刑されました。



 上から目線で見れば、プガチョフは反乱の首謀者で、ピョートル3世を自称した偽皇帝ということになるでしょう。



 しかしその反面、農奴という被差別の立場に立てば、敗れはしましたが、エカチェリーナ2世という強大な差別者に立ち向かった 「民衆のための解放者」 でもあります。



 国民の大多数の課題を共有するならば、「解放者」 という見方があってもよいのではないか、と僕は考えています。
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