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1 松平広忠 (1526 ~ 1549)3uwl1b






~強豪に挟まれて心労を重ね見捨てられた三河の戦国大名~






 あまりにも有名な徳川家康のお父さんです。

 後に300年近く続いた日本史上屈指の強力政権、江戸幕府の元祖になる人物ですね。




 家康の父親だから、さぞかししっかりした人物かと思いきや、その実態には程遠いものがあります。



 苦難続きの人生を歩み、何も報われなかったのではないだろうかと思えるほど苦労が多かった人です。




 あげくの果てにわずか20代の若さで悲運の死を遂げています。

 彼の身にいったい何があったのでしょうか。




 1526年、広忠は松平清康の嫡男として、愛知県岡崎市で生まれました。




 当時三河(現在の愛知県東部) は、東に駿河の今川義元、西に尾張の織田信秀(信長の父) に挟まれていました。




 どちらも松平氏にとっては強豪で、常に緊張が続く状態でした。

 こんな中でも清康は剛毅な性格で、何度かの戦いで奮戦し、三河一国を統一しています。




 織田に圧力をかけるほど、強力な勢力を築くことができました。

 しかし、不幸が突然訪れます。




 広忠が13歳のときでした。

 父の清康が尾張の守山というところで、家臣に誤殺されてしまったのです。




 この事件は歴史上「守山崩れ」 と呼ばれています。

 たちまち織田軍が攻めてきました。




 13歳の広忠が、どうして大将として戦えましょうか。

 苦戦はしましたが、叔父や曾祖父が中心になって織田軍を撃退することができました。




 命拾いです。

 ところが、一難去ってまた一難。




 この叔父や曾祖父によって、広忠は国を追われました。

 たった7人の家臣を連れて、伊勢に逃亡する羽目になったのです。




 領地を奪われた幼い当主の悲惨な逃亡劇ですね。

 その後、現在の静岡県西部である遠江(とうとうみ) まで逃げました。




 そこで手紙を書きまくり、親戚一族との和睦に持ち込むことに成功しました。




 志半ばで倒れた父清康の影響もあったのでしょうか、結局多くの家臣が帰参し、広忠は念願の本拠地岡崎に帰還できたのです。




 一時は広忠暗殺計画も噂され、夜も眠れなかったことでしょう。

 1541年、広忠は16歳で結婚します。




 相手は14歳の於大(おだい) という女性で、近隣の城主水野忠政の娘でした。

 翌年長男が誕生し、松平竹千代と名づけられました。




 これが後に、徳川家康になる人物ですね。

 しかし、この結婚は3年ほどしか続きませんでした。




 1544年、広忠は妻於大と離縁し、実家の水野家へ強制的に返しました。

 理由は、実家の父の後を継いだ息子の水野信元が、織田方に就くことを表明したからです。




 妻本人に何の責任もありません。

 1547年、織田信秀が三河に攻めてきました。




 広忠は今川義元の援助を何回も受けていて、このときも援軍を要請したのです。

 その見返りとして嫡男竹千代の人質を要求されます。




 しかたなく、駿河へ出すことになりました。

 ところが事件がおこります。




 途中の愛知県田原というところで、竹千代は織田方に奪われて尾張へ連れて行かれたのです。

 人質の横取りですね。




 この緊急事態に、広忠は竹千代を見捨てます。

 今川が怖かったのでしょう。




 織田からの同盟の誘いを断りました。

 家臣からは相当な反発が出ています。




 後の徳川家康も、この幼少時から大変な目にあっていますね。

 いつ殺されてもおかしくありません。




 広忠はまたしても、心労に心労を重ねることになりました。

 この時点で、家臣団からの不信があちらこちらに出てきていました。




 1549年、ついに広忠は家臣の岩松八弥に暗殺されます。

 わずか24歳の若さでした。




 敵は織田でも今川でもなく、自分の家臣だったのです。




 弱小の戦国大名の悲劇を、絵に描いたようなできごとですね。




 広忠の生き方のどこかで、方針転換が必要だったのではないでしょうか。
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