FC2ブログ
5 足利持氏(もちうじ) (1398 ~ 1439)3uwl1b






~将軍の地位にこだわり自殺に追い込まれた鎌倉公方~






 鎌倉公方というのは、室町幕府の出先機関の一つである鎌倉府の長官です。

 2代将軍足利義詮(よしあきら) の弟である基氏(もとうじ) が初代です。




 持氏は4代目でした。

 足利将軍家の分家ですね。




 将軍家と同じように、尊氏の血をひく名門で、誇り高き家系でした。

 関東や東北などの東国の管理を任され、事実上の独立国のような大きな権限をもっていました。




 その持氏は、最終的に自殺という幕切れに追い込まれました。




 なぜなのでしょうか。




 1409年、持氏は父親の死によって鎌倉公方に就任しました。

 若年11歳ですね。




 現代でいえば小学校の5年生です。

 東国を治めるには少し無理があると考えられますね。




 なめられたのでしょうか。

 叔父の足利満隆(みつたか) が謀反をおこします。




 鎌倉府の公方の補佐役は関東管領といいますが、この役に就いていた上杉禅秀(ぜんしゅう) と満隆が組んで、クーデターをおこしたのです。




 持氏は鎌倉を追われて、駿河に追放されてしまいました。

 この事件を歴史上、上杉禅秀の乱といいます。




 京都の幕府では、新しい鎌倉公方を認めるか、という意見もありましたが、4代将軍足利義持は軍勢を差し向けてこの乱を鎮圧しました。




 この決断の陰には、義持の弟、義嗣が陰で糸を引いていたという噂があったのです。

 後に義持は、義嗣も殺しました。




 東を見ても西を見ても、血で血を洗うような権力争いばかりですね。

 その背景には差別心が渦を巻いています。




 おかげで足利持氏は、鎌倉公方に復帰することができました。




 せっかく復帰できたのだから幕府に感謝して、東国の民衆のために良い政治を行おうとしたのでしょうか。




 ところが、そうではなかったようです。

 持氏が次に狙ったのは、将軍の座でした。




 絶好の機会が巡ってきました。




 1425年、5代将軍足利義量(よしかず) が10代の若さで急死し、その3年後には将軍の代理を務めていた4代将軍だった義持も、後継ぎを決めないまま病死したのです。




 6代将軍が空席になってしまったのですね。

 持氏の声が聞こえてきます。




 「私こそ次の将軍である」

 息巻いて、鎌倉から京へのぼる心の準備をしたことでしょう。




 ところが、事態は意外な決着で終わりました。

 何と次の6代将軍は「くじ引き」 で決まったのです。




 義持の子どもはいなくなっていましたが、出家して寺に入っていた弟たちが4人ほどいたからです。



 こうして寺から還俗(げんぞく) して即位したのが、6代将軍足利義教(よしのり) です。




 「ふざけるな。

  そんな無責任な決め方でいいのか」




 持氏の声は、ある意味で国民の声を反映しているとも考えられますね。

 同時に、権力への欲望はきりがないともいえます。




 この不満から、持氏は数々の悪態をつきます。

 まず足利義教を「還俗将軍」 と呼んで馬鹿にしました。




 そのほか、室町幕府の慣例や、将軍からの要望や挨拶なども無視し続けました。

 こうなると部下も心配になります。




 関東管領の上杉憲実(のりざね)は、鎌倉公方と将軍の対立を避けるため、懸命に努力をしましたが、持氏は逆に憲実を遠ざけるようになっていきました。
 


 そしてついに、憲実は関東管領を辞職せざるを得なくなったのです。




 かくして合戦です。

 将軍義教は持氏追討の軍をおこしました。




 上杉憲実も将軍側につきました。

 天皇の命令である綸旨(りんじ) も出され、持氏は孤立無援であっけなく敗れてしまいました。




 1439年、持氏は自殺という悲しい結末で、一生を閉じることになったのです。




 それにしても、一般庶民の視点から見れば、東国の主という恵まれた環境です。




 自分の意識の持ち方一つで、部下や庶民と共に、もっと解放された賢く楽しい人生を送ることができたのではないでしょうか。
スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://eichi862.blog.fc2.com/tb.php/246-d7500d95