4 足利義量(よしかず) (1407 ~ 1425)3uwl1b






~飼い殺し状態で若い命を落とした室町の虚弱将軍~






 「花営三代」 という言葉をご存知でしょうか。

 足利幕府の第3、4、5代将軍である義満、義持、義量の時代を指します。




 合わせて約60年間で、室町幕府の黄金時代になります。

 京都の美しい「花の御所」 を本拠とし、室町時代では最も安定した時期でした。




 恵まれた環境の中で、義量はこの中の一人、5代将軍として歴史にその名を残すことになりました。



 しかし、彼の将軍としての在職期間はわずか2年余り。




 19歳で亡くなっています。

 なぜなのでしょうか。




 1407年、義量は4代将軍足利義持の嫡男として生まれました。

 彼も生まれながらにして、将軍になることを約束されたような立場ですね。




 しかし、父親の義持は違いました。

 形の上では4歳で将軍職を継ぎましたが、実権は何もありませんでした。




 さらに、義嗣(よしつぐ) という弟がいて、3代将軍義満は、いずれこの義嗣を将軍にと考えていました。



 弟のほうは寵愛し、兄の義持はうとまれていたのです。




 義満の急死により、やっと実権をもてたのでした。

 このことがあったからでしょう。




 義持は元服した唯一の自分の子どもである義量を寵愛し、将軍になることを確かなものにしたかったのだと思います。




 ちなみに、邪魔者になる弟義嗣は、寺に幽閉し、火をかけて殺しています。




 自分の参詣や参籠、遊覧のときには、ほとんど義量を同行させました。

 次の将軍は義量だ、ということをアピールしていたのでしょう。




 政治も義満のやり方をことごとく変えました。

 明の家臣としての扱いを嫌って、勘合貿易もやめました。




 しかし、当の義量は生来から病弱でした。

 疱瘡も患っています。




 幕府が京都にあったので、貴族とのお付き合いで飲酒の機会も多かったのでしょう。

 5歳のころから自分の虚弱体質を顧みず、飲酒していました。




 15歳のとき、朝から晩までの大酒飲みを父の義持に戒められ、近臣たちは義量に酒を勧めないよう起請文をとらされました。



 
 15歳といえば、現在では中学3年生にあたります。




 どう見ても健康に良いとは思えませんね。

 1423年、義量は晴れて5代将軍になります。




 このとき彼は17歳。

 父の義持もまだ38歳の若さで健在でした。




 「だいじょうぶなのか、あんな頼りないので」

 家臣たちの言葉です。




 これを敏感に察知した父親の結論は、次の一言でした。

 「実権はやはり自分が持とう」




 しかし、これが裏目に出ました。

 義量は将軍とはいえ、何も権限がなく、単なる飾り物になってしまったのです。




 不満とストレスを紛らわせるために、ますます酒びたりの生活になっていきました。

 僕もわずか一週間でしたが、何もやることがないという状態に追い込まれたことがあります。




 将軍とはだいぶ立場が違いますが、行政職を3年間やったことがあります。

 遺跡の発掘調査を命じられたのです。




 考古学が専門ではない僕にとって、ここは未知の世界でした。




 着任した4月の最初の1週間、上司から「本を読め」 という指示を受けて、朝から晩まで難解でわかりづらい発掘の報告書を読みました。




 このときはまだ、研修制度が整っていなかったのですね。

 上司からはあまり親切に教えてもらえませんでした。




 その後は改善されたようですが、正直言って、このときはとても辛かったです。

 こんな思いをするなら、「忙しいほうがよい」 とさえ思いました。




 その期間が過ぎたらある程度やることが出てきて、たくさんの貴重な体験をさせていただきました。



 今では感謝しています。


 義量の心労は、はたから見るよりずっと深刻だったと考えられます。




 彼の早い死は、この心労と無関係ではないでしょう。

 何とか、この理解されにくい地獄から脱出する方法はなかったのでしょうか。
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