3 足利義詮(よしあきら) (1330 ~ 1367)3uwl1b






~度重なる戦争と心労で若死にした南北朝時代の将軍~






 室町幕府の2代将軍です。

 名前が読みにくいですね。




 義詮(よしあきら) といいます。

 彼の父と子が歴史上の有名人なので、あまり目立ちません。




 足利尊氏の子であり、足利義満の父親といったほうがわかりやすいかもしれません。




 室町幕府の黄金時代への基礎づくりを行い、文人としても連歌や和歌が多く後世に伝わっています。




 しかし、彼の寿命はわずか38年。

 この短い生涯の背景には、いったい何があるのでしょうか。




 1330年、義詮は後に室町幕府を開く足利尊氏の3男として生まれました。

 当時はまだ鎌倉時代で、父の尊氏は鎌倉幕府の御家人の一人でした。




 兄に直冬(ただふゆ) がいましたが、義詮の母親が正妻の登子(とうし) だったので、最初から嫡男として尊氏の後継者になりました。




 ちなみに登子は、鎌倉幕府の執権、北条守時の妹で、直冬は尊氏の弟、直義(ただよし) の養子になりました。




 不幸にも、後に直冬と義詮は対決せざるを得ない状況に追い込まれます。




 1333年、義詮は北条高時の命令により、人質として鎌倉に留め置かれました。

 わずか3歳の幼少にして、早くも命のピンチですね。




 父の尊氏が、後醍醐天皇の元弘の変で、幕府側として出陣することになったからです。

 しかし、家臣たちの配慮で鎌倉を脱出することができました。




 後に父が朝廷側につき、新田義貞が倒幕軍をおこしたときは、200騎を率いて新田軍に参加しました。



 これで一応、幕府権力からは解放されたことになりました。




 ところが、意外なことがおこりました。

 1335年、北条氏の生き残りであった北条時行が挙兵したのです。




 義詮は、鎌倉から逃亡する羽目になってしまいました。




 中先代の乱(なかせんだいのらん) と呼ばれるこの戦闘で、一旦は鎌倉を取り戻します。




 ところが、同年南朝方の北畠顕家(きたばたけあきいえ) が東北から関東に進軍し、敗れた義詮はまたしても鎌倉から撤退しています。




 目まぐるしいですね。

 これだけでも落ち着いている暇がありません。




 室町幕府が開かれてからも、なかなか落ち着きません。




 京都で将軍の後継者として居座れるかと思ったら、叔父の直義が尊氏と対立し、京都へ攻めてきたのです。




 敗れた義詮は丹波へ逃亡。

 また、南朝方にも攻められ、今度は近江へ逃亡。




 この間に義詮暗殺計画が発覚し、またまた美濃へ逃亡というありさまです。

 これでは命がいくつあっても足りません。




 やっとのことで京都や鎌倉を奪い返しましたが、いつ死んでもおかしくない戦乱の中での2代将軍就任だったのです。




 将軍になっても相変わらず戦いばかりです。




 家臣の中で内紛が生じ、1362年にはまたしても南朝方に京都を攻められ、義詮は後光厳天皇とともに近江へ逃亡しました。




 全国がまだ、完全には統一されていないのですね。


 室町幕府と将軍の権限を守るためとはいえ、想像を超える心労の連続だったと考えられます。




 最初から家臣であるよりも、生まれながらの将軍という地位を背負っていたほうが、むしろ本人の負担は大きかったのではないでしょうか。




 自分の死期を悟ったときにも、後継者の義満はまだ幼少。

 不安だらけですね。




 「太平記」 によると、義詮は「他者の口車に乗りやすく、酒色に溺れた愚鈍な人物」 と酷評されています。




 その一方で、「中国地方を統一し、京都や鎌倉を奪い返した軍功もあり、将軍の権力を高めた。


 幕府政治に安定をもたらすきっかけもつくった」 という評価もあります。




 いずれにせよ、権力維持に振り回された、過酷な一生だったのではないでしょうか。




 直接の死因ははっきりしませんが、彼の短い生涯に、数々の心労が大きく関係していると考えるのが自然だと思います。
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