| Home |
2018.05.24
第4章 室町時代 2 足利尊氏
2 足利尊氏 (1305 ~ 1358)3uwl1b
~身内までが敵対し疲れ果てて病死した征夷大将軍~
室町幕府を開き、200年以上にわたって続いた新しい室町時代を築いた有名人ですね。
この時代の武士たちからの信望が厚い人物でした。
戦いに勝てば、リーダーとして気前よく恩賞を分け与え、武士の権力の頂点に立つことができました。
しかし、将軍になってからの彼は、優雅な生活とは程遠いものがありました。
心身ともに疲れ果て、仏教に救いを求めて悩み続ける毎日を送ることになったのです。
この背景にはいったい何があるのでしょうか。
1305年、尊氏は鎌倉幕府の有力御家人、足利貞氏の次男として生まれました。
残念ながら、彼の前半生は主だった記録がなく、詳しいことはほとんどわかっていません。
ただ、足利家は、八幡太郎と呼ばれた源義家につながる源氏の名門であったことははっきりしています。
義家の息子の義国が足利の地に領地を得て、源氏の分家としての足利氏が誕生したのです。
古くから従う武士も多かったわけですね。
彼が歴史に登場するのは、後醍醐天皇が倒幕の兵をあげてからのことです。
鎌倉幕府の京都の出先機関であった六波羅探題を滅ぼして、建武の新政という朝廷の権力復活を決定的なものにしました。
しかし、鎌倉幕府が滅びた後、一時北条氏によって鎌倉を占領されます。
北条高時の息子である時行が生きていたのです。
歴史上、中先代の乱(なかせんだいのらん) とよばれるできごとです。
尊氏は後醍醐天皇を無視して、この乱を鎮めに関東へ行ったのでした。
これは、天皇に敵対したことを意味します。
楠木正成や新田義貞などの名将も敵に回して苦戦します。
九州まで落ち伸びて、自殺までほのめかすほど追い込まれました。
朝敵の汚名がついてまわっていたからですね。
朝廷の権威を示すこの「朝敵」 という言葉には威力があります。
まるで、常に朝廷だけが「正義の味方」 のように聞こえてしまいますね。
尊氏が逆転したのは、この朝敵の汚名がとれたときからです。
光厳(こうごん) 上皇が院宣を出してくれたからです。
結局、湊川などその後の戦いで勝利した尊氏は、北朝の光明天皇から征夷大将軍に任命され、晴れて室町幕府を開くことができたのです。
しかし、問題はここからです。
後醍醐天皇が病死した後も南朝は健在で、尊氏はまだ全国を統一したとはいえない状態でした。
予想外だったのは、苦楽を共にしてきた弟、足利直義(ただよし) との意見の対立でしょう。
直義は足利氏の重臣である高師直(こうのもろなお) と合わず、一方的に殺害してしまったのです。
ついに尊氏は弟を敵に回して戦うはめになってしまいました。
直義は敵であった南朝と手を組んで尊氏に敵対しました。
歴史上、観応の擾乱(かんのうのじょうらん) と呼ばれる戦いです。
この戦いの中で尊氏は直義を毒殺したといわれていますが、真相ははっきりしません。
さらに、尊氏の庶子で直義の養子になっていた足利直冬(ただふゆ) も尊氏に敵対しました。
もう、戦いだらけですね。
骨肉の争いに、心身ともにくたくたになってしまったことでしょう。
疲れ果てた尊氏は、仏教に救いを求めるようになりました。
戦死した多くの人々を弔うために写経をしました。
十万体の地蔵をつくったり、寺院を建立したりもしました。
信仰によって、度重なる心労から逃れようとしたのでしょう。
尊氏の最期は、直冬との戦闘で受けた矢傷がもとで亡くなったとか、背中に腫れものができて、その毒が全身に回って亡くなったともいわれています。
いずれにせよ、死ぬまで解放されることなく、天下統一は見ていません。
幕府を開いて将軍としての権力を握ってからのほうが、よほど大変だったと考えるのは僕だけでしょうか。
~身内までが敵対し疲れ果てて病死した征夷大将軍~
室町幕府を開き、200年以上にわたって続いた新しい室町時代を築いた有名人ですね。
この時代の武士たちからの信望が厚い人物でした。
戦いに勝てば、リーダーとして気前よく恩賞を分け与え、武士の権力の頂点に立つことができました。
しかし、将軍になってからの彼は、優雅な生活とは程遠いものがありました。
心身ともに疲れ果て、仏教に救いを求めて悩み続ける毎日を送ることになったのです。
この背景にはいったい何があるのでしょうか。
1305年、尊氏は鎌倉幕府の有力御家人、足利貞氏の次男として生まれました。
残念ながら、彼の前半生は主だった記録がなく、詳しいことはほとんどわかっていません。
ただ、足利家は、八幡太郎と呼ばれた源義家につながる源氏の名門であったことははっきりしています。
義家の息子の義国が足利の地に領地を得て、源氏の分家としての足利氏が誕生したのです。
古くから従う武士も多かったわけですね。
彼が歴史に登場するのは、後醍醐天皇が倒幕の兵をあげてからのことです。
鎌倉幕府の京都の出先機関であった六波羅探題を滅ぼして、建武の新政という朝廷の権力復活を決定的なものにしました。
しかし、鎌倉幕府が滅びた後、一時北条氏によって鎌倉を占領されます。
北条高時の息子である時行が生きていたのです。
歴史上、中先代の乱(なかせんだいのらん) とよばれるできごとです。
尊氏は後醍醐天皇を無視して、この乱を鎮めに関東へ行ったのでした。
これは、天皇に敵対したことを意味します。
楠木正成や新田義貞などの名将も敵に回して苦戦します。
九州まで落ち伸びて、自殺までほのめかすほど追い込まれました。
朝敵の汚名がついてまわっていたからですね。
朝廷の権威を示すこの「朝敵」 という言葉には威力があります。
まるで、常に朝廷だけが「正義の味方」 のように聞こえてしまいますね。
尊氏が逆転したのは、この朝敵の汚名がとれたときからです。
光厳(こうごん) 上皇が院宣を出してくれたからです。
結局、湊川などその後の戦いで勝利した尊氏は、北朝の光明天皇から征夷大将軍に任命され、晴れて室町幕府を開くことができたのです。
しかし、問題はここからです。
後醍醐天皇が病死した後も南朝は健在で、尊氏はまだ全国を統一したとはいえない状態でした。
予想外だったのは、苦楽を共にしてきた弟、足利直義(ただよし) との意見の対立でしょう。
直義は足利氏の重臣である高師直(こうのもろなお) と合わず、一方的に殺害してしまったのです。
ついに尊氏は弟を敵に回して戦うはめになってしまいました。
直義は敵であった南朝と手を組んで尊氏に敵対しました。
歴史上、観応の擾乱(かんのうのじょうらん) と呼ばれる戦いです。
この戦いの中で尊氏は直義を毒殺したといわれていますが、真相ははっきりしません。
さらに、尊氏の庶子で直義の養子になっていた足利直冬(ただふゆ) も尊氏に敵対しました。
もう、戦いだらけですね。
骨肉の争いに、心身ともにくたくたになってしまったことでしょう。
疲れ果てた尊氏は、仏教に救いを求めるようになりました。
戦死した多くの人々を弔うために写経をしました。
十万体の地蔵をつくったり、寺院を建立したりもしました。
信仰によって、度重なる心労から逃れようとしたのでしょう。
尊氏の最期は、直冬との戦闘で受けた矢傷がもとで亡くなったとか、背中に腫れものができて、その毒が全身に回って亡くなったともいわれています。
いずれにせよ、死ぬまで解放されることなく、天下統一は見ていません。
幕府を開いて将軍としての権力を握ってからのほうが、よほど大変だったと考えるのは僕だけでしょうか。
スポンサーサイト
| Home |
第4章 室町時代 1 後醍醐天皇 >>
| Home |

