1 後醍醐天皇 (1288 ~ 1339) 3uwl1b






~権力を握り民衆や公家からも見放された南朝の天皇~






 武士全盛の時代に、政治権力を朝廷に取り戻したことで有名な天皇ですね。




 朝廷の側から見れば、何度も失敗して苦労しながら、天皇や貴族の権威を再び高めた英雄といえます。




 後醍醐とは、平安時代に天皇親政を積極的に行った醍醐天皇に続く者という意味です。




 しかし、「建武の新政」 とよばれた後醍醐天皇の政治は、2年余りでその幕を閉じ、最後は京都から事実上追放されて失意のうちに病死しました。




 この背景にはいったい何があるのでしょうか。




 後宇多天皇の第二皇子として生まれた彼が、天皇として即位したのは30歳を過ぎてからです。

 長い間、忍耐強く時が来るのを待っていました。




 この時代は皇室そのものが2つに分かれ、交互に即位していたのでなかなか天皇になることができませんでした。



 1324年、後醍醐天皇は貴族たちと鎌倉幕府をつぶす計画を立てました。




 これは事前に幕府にもれて失敗しました。

 天皇はうまく罪を逃れましたが、関係した貴族たちは罰せられました。




 正中の変といいます。

 7年後、再び討幕計画を立てますがまた失敗です。




 しかし、今度は天皇も捕えられました。

 奈良県の笠置山に立てこもりましたが、20万人の幕府軍に敗れ、隠岐に島流しにされました。




 それでも後醍醐天皇はあきらめません。

 隠岐を脱出して名和長年(なわながとし) や楠木正成らを従えて幕府軍と戦いました。




 最終的には足利尊氏や新田義貞が味方になり、1333年、ついに鎌倉幕府を滅ぼしました。

 リーダーシップを発揮し、執念と努力で念願をかなえました。




 しかし、問題はここからです。




 手柄のあった武士たちを差別的に扱い、大きな反感を買います。

 恩賞は貴族たちに厚く、武士を軽視しました。




 あくまでも朝廷が優先で、武士や一般庶民を見下していたのですね。

 内裏建築のために、増税も行いました。




 これでは民衆からも支持されませんね。

 突然、二条河原の落書が掲げられます。




 「このごろ都にはやるもの、夜討ち、強盗、にせ綸旨(りんじ)」 にはじまる落書は、民衆が建武の新政を風刺したものとして有名になってしまいました。




 綸旨(りんじ) とは、天皇の命令のことですね。

 反感を抱いたのは武士や民衆だけではありません。




 実は貴族もそうなのです。




 後醍醐天皇は近臣の日野資朝(すけとも)、日野俊基(としもと) らと衣冠(いかん) を脱いで裸に近い姿で飲食をしました。




 その席には17歳~18歳の美女20人余りを侍らせ、肌が透けるような単衣(ひとえ) を着せていたのです。




 つまり、現在でいう乱交パーティーですね。




 この天皇の振る舞いは、たちまち都中の噂になったのです。

 天皇は真言立川流の僧文観(もんかん) のすすめによって、無礼講の乱交をよく行いました。




 性行為を多く経験することで「強い呪力が得られる」 というものです。

 これは誰が考えてもちょっと疑問ですね。




 多くの貴族たちは、後醍醐天皇は勝手な理屈をつけて、自分の好色を正当化していると考えました。



 これでは朝廷の貴族たちからも見放されてしまいますね。




 事実、南北朝の争乱が始まると、多くの貴族たちは後醍醐天皇の南朝を見放し、北朝につきました。
 


 1336年、足利尊氏は京都で光明天皇を立てました。




 これが北朝で、2年後には尊氏が征夷大将軍に任命されました。

 室町幕府の成立です。




 奈良県の吉野に逃れた後醍醐天皇は、それでも自分が正当の天皇であると主張して戦い続けました。



 吉野は深い山の中です。




 都育ちの彼にとっては、これだけでも相当な心労だったことでしょう。

 武士から見放され、民衆からも見放され、貴族からも見放されて京都にいられなくなりました。




 室町幕府成立の翌年、後醍醐天皇はついに都に戻れないまま、吉野で病死しました。




 もう少し、武士や民衆の立場に立ち、差別心から解放されていれば都にいられたかも知れませんね。
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