6 楠木正成 (1294 ~ 1336) 3uwl1b






~権威に翻弄され自殺に追いこまれた建武の新政の立役者~






 鎌倉時代と室町時代の間に、一時天皇が直接政治を行った時期がありました。

 歴史上有名な後醍醐天皇の「建武の新政」 です。




 この新しい天皇の右腕となって、大きな役割を果たした武将が楠木正成です。

 武芸に優れた名将で、歴史を塗り変えた人物として広く知られていますね。




 しかし僕は、正成は「天皇の権威によって生かされ、権威によってつぶされた」 悲劇の武将でもあるとも考えています。





 なぜでしょうか。





 正成の生年は1294年としましたが、正確かどうかはわかっていません。

 彼の前半生はほとんど不明だからです。




 楠木一族は河内(現在の大阪府南部) の地元特産の水銀を売って経済的に力を蓄えた新興の地方豪族といわれています。




 鎌倉時代末期は、幕府の支配に従わなかったので「悪党」 と呼ばれていました。




 正成が歴史に登場するのは1331年、後醍醐天皇が京都で倒幕の兵をあげた時からです。

 時代はすでに武士の時代になっています。




 さすがに巨大な幕府の軍事力に恐れをなして、倒幕勢力に加わる者はわずかでした。

 この中に正成の姿があったのです。




 河内の赤坂城や千早城では幕府の大軍を相手に、少ない兵で大きな活躍をしました。




 戦上手で、ゲリラ戦法や糞尿攻撃、人形や大きな石を使った戦法で、相手の意表をつく戦いをしました。




 後醍醐天皇も絶大なる信頼を正成に寄せるようになりました。

 鎌倉幕府を滅ぼす第一歩は、彼が築いたのですね。




 建武の新政が始まると、正成は河内・和泉の守護に任命されました。




 しかし、恩賞をはじめとする後醍醐天皇の武士たちへの扱いは、貴族たちに比べると極めて不公平なものでした。




 やはり差別的に扱ったのですね。

 武士たちの不満が日に日に高まる中で、ついに足利尊氏が反旗を翻したのでした。




 これは尊氏個人というよりも、当時の武士全体の意志と考えるべきものでしょう。

 朝廷軍の武士たちでさえ、多数尊氏のもとへ走ったからです。




 正成も後醍醐天皇に涙ながらに進言しました。

 「どうか尊氏と和睦してください」




 正面からの戦いでは絶対に勝てないと確信していたからです。

 「勝ったのに和睦を求めるのは不思議じゃ」




 公家たちに嘲笑されてしまいました。

 天皇は公家たちの意見を採用したのです。




 ここで正成は引き下がってしまいました。

 「戦いのことは武士にお任せください」




 などともっと強気の発言をすることは難しかったのでしょうか。

 ついに尊氏との戦いです。




 正成の作戦は

 「天皇は比叡山に避難してください。




 尊氏が入京したところを楠木軍と新田軍が挟み撃ちにします」

 という頭脳的なものでした。




 しかし、次の公家の一言で却下されてしまいました。

「それでは天皇の体面が悪い」




 正成の死が確定した瞬間ですね。




 尊氏軍35,000にたいして楠木軍はわずか700。

 50分の1です。




 これでは正攻法で「死ね」 と言われているのと同じですね。

 事実、正成はこの戦いで命を落とします。




 1336年、湊川(みなとがわ) の戦いの火ぶたが切って落とされました。

 力の限り奮戦しましたが、正成はここを死に場所と決心しました。




 6時間後、逃げられる部下は逃がし、最後まで残った72名と民家に入りました。

 ここで念仏を唱えて家屋に火を放ち、炎の中で全員が自刃しました。




 後醍醐天皇と公家たちに自殺を命じられたのと同じですね。




 朝廷からの差別を乗り越える方法はなかったのでしょうか。




 それができれば、もっと長く、もっと有意義に生きのびることができたかも知れない、と考えるのは僕だけでしょうか。
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