1 北条政子 (1157 ~ 1225)






~権力を獲得して身内がことごとく犠牲になった尼将軍~






 有名な源頼朝の正妻です。

 意志の強い女性で、夫とも対等以上に渡り合いました。




 夫と共に新しい武士の時代を切り開き、頼朝亡きあとは、事実上の鎌倉幕府の将軍ともいえる権力をもちました。




 草創期の幕府がピンチに陥ったときも、強いリーダーシップでこれを乗り越え、幕府の安定した権力の確立に貢献しています。




 そんな政子の晩年の発言です。

 「どこかの川に身を投げて死んでしまいたい」




 これはいったいなぜなのでしょうか。




 1157年、政子は北条時政の長女として伊豆で生まれました。

 北条氏はもともと平氏の一族で、分家にあたります。




 平治の乱で敗れ、一命を取り留めて伊豆へ流罪になった源頼朝の監視役を命じられていたのでした。



 時政にとって頼朝は敵であり、邪魔者ですね。

 頼朝は流人として伊豆で20年間過ごしますが、女性に手を出すのはとても早かったのです。




 伊東祐親(すけちか) の娘である八重姫(やえひめ) に早々と手を出し、子どもまで生まれましたが、激怒した父親によって仲を引き裂かれ、子どもは滝に投げ込まれて殺されました。




 時政が京都の警備で長期出張中のことです。

 こともあろうに、娘の政子と頼朝が恋仲になり、未婚のまま女児を出産してしまいました。




 これが後の大姫です。

 時政は激怒します。




 「これは大変、平氏に知られたら・・・」

 二人の結婚は断じて認めません。




 政子を伊豆目代の山木兼隆と結婚させようとしました。

 何と婚礼の日、政子は屋敷を飛び出したのでした。




 山を越え、風雨をついて暗夜をさまよい、頼朝のもとへ走ったのです。

 さすがの父親も「参った」 ですね。




 ここまでして情熱的な恋愛で結ばれた夫婦です。

 さぞ幸福な結婚生活かと思いきや、現実はそうでもありませんでした。




 最大の理由は頼朝の浮気癖です。

 何度も何度もありました。




 一例として、政子が妊娠中に頼朝は亀の前という女性を寵愛し、近くに呼び寄せて通うようになりました。




 不倫ですね。




 頭にきた政子は、部下に命じてその女性が住んでいた邸を破壊させたのです。

 これはちょっと怖いですね。




 強烈な嫉妬です。

 1199年、源頼朝が死亡します。




 不思議なことに、正確な死因は現在までわかっていません。

 落馬が原因で病死したということになっていますが、これは不自然です。




 鎌倉幕府の正史である「吾妻鏡」 も肝心な部分がないのです。

 というより、知られないようにされたのでしょう。




 だから当初から暗殺説がささやかれてきました。

 権力を奪うための毒殺のほうが説得力があります。




 その黒幕にはさまざまな人物の名が上がっていますが、政子の名もあります。




 尼将軍として大きな発言権を得た政子は、2代将軍頼家、3代将軍実朝の生母として、幕府の政治的中枢を担いました。





 後には父親の時政を追放しています。

 1221年には承久の乱がおこり、幕府はピンチにさらされました。




 このときに御家人たちの前で力強く演説し、武士の力を結集して朝廷に負けなかったのも、政子の力があったからですね。




 しかし、「承久記」 に残された政子の言葉はこうです。

 「私は周囲から日本で一番幸福な女といわれますが、それはちがいます。




 結婚に反対されて親から恨まれ、夫が平氏と戦っている6年間は不安な毎日を過ごし、平氏が滅んだら今度は娘の大姫が病で死んでしまいました。




 二女の乙姫にも先立たれました。

 そして不倫だらけの夫に先立たれたと思ったら、将軍になった息子たちも次々に殺されました。




 こんなつらい運命だと知っていたら、もっと早くあの世へ行くべきでした」




 「権力は獲得しても、家庭的には決して幸福ではなかった」




 これは本人自身の言葉です。
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