FC2ブログ
12 藤原泰衡 (1155 ~ 1189)






~差別心から父の遺言を破り自滅に追い込まれた奥州の実力者~






 「源氏など落ちぶれた家柄ではないか」

 これが藤原泰衡(やすひら) の本音でしょう。




 確かに奥州藤原氏は、平安末期に大いに栄え、父の秀衡は「北の王者」 とまで呼ばれていました。




 東北地方は現在の岩手県平泉を中心に一種の独立国に近い状態だったのです。


 中尊寺金色堂に見られる黄金文化はその豊かさの象徴ですね。




 しかし、秀衡の後を継いだ四代目の当主である泰衡によって、奥州藤原氏は滅亡を早めたといえます。




 なぜでしょうか。




 源平の合戦が始まる前から、秀衡は絶えず朝廷や平氏の権力を注意深く観察し、駆け引きをしていました。




 たまたま、源義経が平泉に来て平氏打倒のための協力を要請します。




 秀衡は類まれな義経の武の才能を見抜き、厚遇しました。

 奥州の勇敢な武将を何人もつけて、義経の平氏打倒に惜しみなく協力したのです。




 将来の奥州の立場を見据えて、絶対に味方にしたい人物だと考えたからです。

 子の泰衡には、ここが理解できなかったのではないでしょうか。




 家柄と名声が優先し、源氏を見下していたのです。




 平治の乱で平氏に敗れて棟梁の源義朝を失い、全国に散りじりになっていた源氏など、物の数ではないと思っていたのでしょう。




 ましてや義経は義朝の九男、戦いの実績もなく何ができるか、と考えていたと思います。

 父秀衡が義経を大切に扱う姿に、大きな疑問と強い不満があったのです。




 自分のほうがよっぽど上だと当然のように思い、義経を差別的な目で見ていたのです。

 ところが、壇ノ浦の戦いで義経は平氏を滅ぼし、その武勇は全国に広まりました。




 鎌倉に凱旋しようとしましたが、兄の頼朝はこれを認めず、会おうともしませんでした。

 自分の命令に従わず、勝手な行動をしたということだったのです。




 ついに義経は頼朝と仲違いをすることになり、再び奥州平泉にやってきたのです。

 秀衡は暖かく迎えましたが、泰衡は冷たい視線のままでした。




 奥州の勇敢な武士がいたから、義経は平氏に勝てたとでも思っていたのでしょうか。

 泰衡は実は次男で、長男は国衡といいました。




 しかし、国衡の母親は秀衡の正妻でなかったために泰衡が後継者となっていたのです。

 この兄弟の仲は険悪でした。




 さらに、泰衡は義経を支持する弟の忠衡を殺害し、末弟の頼衡をも殺害しています。

 権力と差別が渦巻く世界ですね。




 父の秀衡は、源頼朝と奥州藤原氏の対立を予想していました。

 死の直前に国衡、泰衡、義経の3人を集めて融和のための起請文を書かせています。




 遺言は、以下の通りです。




 「義経を大将軍として給仕し、三人一味の結束をもって頼朝の攻撃に備えよ」




 これが実行されていれば、慎重な頼朝はうかつには手を出せないと考えられます。

 しかし、現実は違っていました。




 何と泰衡は義経を攻めて、自殺に追い込んでしまったのです。

 そうすれば頼朝から認められ、奥州は自分のものになると思い込んでいたのでした。




 この甘い予想は見事にはずれ、逆に頼朝が奥州を攻める絶好のチャンスを作ってしまうという結果になりました。




 1189年、阿津賀志山の戦いで総大将の国衡が敗れると、泰衡は急に弱気になりました。




 平泉に火をかけ、自分は逃走を開始したのです。

 あげくの果てに、頼朝に対して命乞いをしています。




 「義経のことは父が保護したものであり、自分は全く関係ありません。

 私が義経を討ったのは勲功です。




 御家人に加えていただくか、さもなくば死罪を免じて遠流罪にしていただきたい」




 あまり格好良くないですね。




 結局泰衡は、最期は逃走中に家臣にも見捨てられて青森県で殺されました。




 源氏を見下さなければ、このような悲劇は回避できたかも知れませんね。
スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://eichi862.blog.fc2.com/tb.php/234-a90bd12c